写真館開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 04:34 UTC 版)
文久2年(1862年)蓮杖は40歳で横浜の野毛、ついで弁天通5丁目横町で写真館を開業した。これが横浜における営業写真館の最初であるとされる(江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設しているとされる。長崎の上野彦馬の開業は、蓮杖と同年)。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客はいずれも外国人であった。写真館に来る外国人は和服和装姿や甲冑姿で写真を取るのを好んだが、着物を左前に着たり、屏風の傍らに石灯籠を配するなど日本の風習を無視する者もいた。蓮杖は注意したが外国人は応じず、蓮杖も諦めて撮影するようになった。開化期にしばしば見られる奇妙な日本風俗写真は、こうした経緯で制作されたとみられる。また外国人客は日本娘の写真を大変好んだため、蓮杖は多額の報酬でモデルを雇って撮影し、浮世絵美人画のような写真も販売した。文久年間には根強かった迷信も次第に無くなり、日本人客も来るようになり店は繁盛した。 蓮杖の門下からは、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一(初代)、江崎礼二など日本写真史に名を残す著名な写真家達を輩出した。ほかに桜田安太郎、四身清七、桜井初太郎、平田玄章、西山礼助、船田万太夫、勅使河原金一郎などがいる。木村熊二も一時弟子となった。 一方で蓮杖はまた勤王の志が強く、箱館戦争、台湾出兵などのパノラマ画を描き、作品は遊就館に納められた。また、元治元年(1864年)に来日、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、そこで石版印刷を学び、明治初期、蓮杖も自ら石版画「徳川家康像」を制作、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。 明治15年(1882年)、蓮杖は浅草公園第五区に写真館を移したが、その後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。 蓮杖は大正3年(1914年)に浅草で没した。享年92。墓地は豊島区駒込の染井霊園にあり、下田公園には蓮杖の記念碑と銅像が建立されている。
※この「写真館開業」の解説は、「下岡蓮杖」の解説の一部です。
「写真館開業」を含む「下岡蓮杖」の記事については、「下岡蓮杖」の概要を参照ください。
- 写真館開業のページへのリンク