児童労働禁止活動
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「イクバル・マシー」の記事における「児童労働禁止活動」の解説
イクバルはBLLF代表イーシャーン・ウラー・カーン(英語版)の手配により、パキスタン北部の都市ラホールに移住し、BLLFによって作られた学校であるフリーダム・キャンパスに通学し始めた。 田舎村から古都へ移ったことで、彼の環境は大きく変化した。勉学に励んでめざましく知識を広げ、学校のまとめ役にして代表的な生徒となった。アメリカの歴史についての知識も得たようで、エイブラハム・リンカーンのようにパキスタンの子供たちを奴隷同前の労働から解放したいとも語っていた。イクバルの学習は早く、4年分の勉強を2年間で終わらせることができた。 学業の傍らでイクバルは、BLLFのボランティア活動やデモ活動にも参加。子供たちを自由へ導くため、子供の働いている絨毯工場を訪れ、共に自由になることを呼びかけた。この活動には世界中のジャーナリストや労働運動の指導者、人権問題の活動家たちが注目し、BLLFを訪れてイクバルの話に耳を傾けた。労働を強いられていた間のイクバルは学校へ通わず、ラホールに来るまで読み書きがまったくできなかったが、イクバルの演説はそれをまったく感じさせないほど優れたもので、力強さと情熱にあふれ、児童労働の内容は実体験だけあって迫力に満ちていた。大勢の大人を前にした演説でも、怖気づくことはなかった。 イクバルと長い時間話をしました。すばらしい子でした。自分の考えをはっきり言えて、印象深い、とてもいい子でした。深刻ぶったところはありませんでした。わたしが知っているどんな子どもよりも賢く、しっかりしていましたが、やはり子どもでした。生きていたら、将来、すばらしい組織を作っていたかもしれません。 — ファーハド・カリム(ヒューマン・ライツ・ウォッチ・アジア局の元調査員)、クークリン 2012, p. 127より引用。 1994年春にはノルウェーのオスロでスウェーデン産業組合の記者会見に出席し、児童労働禁止について語った。イクバルは子供の自由を力強く訴え、聴衆は水を打ったような静けさで聞き入った。イクバルの「僕たちは自由だ!」の声に聴衆は総立ちとなり、イクバルの「僕たちは」の声に聴衆は「自由だ!」と叫び返した。 1994年11月、イクバルはカーンに連れられて、スウェーデンで開かれた国際労働機関の会議を訪れ、労働体験について語り、会議参加者たちに感銘を与えた。同国滞在中には、同国のフレドリックスダールスコーラン学校の生徒との交流が行われた。ドキュメンタリー映画にも出演して、絨毯産業で子供たちが受けている虐待について語った。 イクバルはこうした活躍により、パキスタンの自由の象徴として、次第に国際的なヒーローとなっていった。一方で、労働する子供たちを抱える絨毯業界にとっては、イクバルは危険な存在といえ、中傷に加え、殺害をほのめかす脅迫もあった。
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