優佳良織工芸館
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優佳良織工芸館(ゆうからおりこうげいかん、英:Yukara Ori Craft Museum[2])は、北海道旭川市の北海道伝統美術工芸村にあった工芸館。北海道の染織工芸品「優佳良織(ゆうからおり)」を展示していた。2016年12月に閉館となったが、後述のように再活用の動きがある[3]。
- ^ a b c 朝日新聞社 2000, pp. 78–79.
- ^ 北海道伝統美術工芸村.
- ^ “未来の旭川 模型で提言 市内の元教諭2人主催 市庁舎や工芸館の活用策も”. 北海道新聞. 2023年8月2日閲覧。
- ^ 木内 1989, p. 220.
- ^ トラベルビジョン 2016.
- ^ “北海道伝統美術工芸村”. 東京商工リサーチ. 2021年8月19日閲覧。
- ^ “伝統工芸"優佳良織"に挑む新人職人に密着”. 北海道放送、今日ドキッ!. 2020年10月11日閲覧。
- ^ “優佳良織買収するエーコー財団”. 月刊北海道経済. 2020年10月11日閲覧。
- ^ “優佳良織工芸館など、旭川の財団が取得断念 3施設存続、白紙に 市と条件折り合わず公売の可能性も”. 北海道新聞. 2020年10月11日閲覧。
- ^ “旭川の雪の美術館など3観光施設 3社が共同取得の方針”. NHK札幌放送局. 2021年8月19日閲覧。
- ^ 伝統継承に安堵広がる 優佳良織工芸館など3施設ツルハなど取得 旭川市に支援策求める声 - 北海道新聞・2022年2月11日
- 1 優佳良織工芸館とは
- 2 優佳良織工芸館の概要
- 3 参考文献
優佳良織工芸館
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木内は1970年の民芸館開館当時より、北海道の伝統工芸を後世に伝え残していくため、すべての制作工程が一つの場所で可能な、本格的な工芸館が欲しいと願っていた。伝統工芸は飾っておくだけのものではなく、多くの人に使ってもらってこそ生きることから、織物を分類、系統立てて展示する場所も必要と考えられた。それからちょうど10年後の1980年(昭和55年)、旭川市神居に、優佳良織工芸館が完成した。 着工から完成までには5年間を要した。完成時は「(木内が)私財を投じて造り上げた」と報じられ、「費用は数十億円」ともいわれたが、木内自身は「もちろん借金だらけです」と語っていた。 工芸館建設の背後には、ドアの把手の制作を担当した木内克と、館のシンボルマークを始め、ドアや正面ホールのレリーフ、庭園の彫刻、工芸館全般の造形を統一して担当した佐藤忠良との、2人の彫刻家の大きな力添えがあった。 2人と旭川を結びつけたのは、旭川ゆかりの彫刻家である中原悌二郎にちなんで制定された中原悌二郎賞である。木内克は第1回の受賞者であった。木内は、ドアの取っ手は館を訪れる方全員が必ず手を触れる大事な部分だと考え、これを木内克に依頼した。「彫刻界の第一人者に把手とは失礼では」との声もあったが、木内克は「僕の作品を皆が触ってくれるなんて嬉しい」と快諾した。 佐藤忠生は中原悌二郎賞の審査員であり、木内の長男で館長を務める木内和博(1946年〈昭和21年〉 - 2016年〈平成28年〉11月13日)の「工芸館に格調高い彫刻を配したい」との希望であった。和博は若い頃から東京の佐藤のアトリエによく出入りし、指導を受けていた縁があった。工芸館の玄関には、佐藤により、木内と和博の母子をイメージした「織女」「牧羊神」と題した、2枚の大きなレリーフが飾られた。このことから木内は工芸館を、自分の織を紹介すると同時に、彫刻家としての佐藤の館でもあると語った。 建物自体にも、北海道の天然木をふんだんに使用、北海道の土で作ったレンガを使い、雪をイメージした純白に輝く壁を採用した。木内はこれを「100年、200年後にも残る本物」と自負した。1977年(昭和52年)に木内が日本民芸公募展で最優秀賞を受賞したこともあって、優佳良織の評価が高まり、工芸館は観光バスが連なる観光スポットになった。 「優佳良織」の名は、版画家の棟方志功の命名である。ユーカラ織の認知度が高くなると、その名称から、アイヌの織物と誤解されることが多くなっており、木内自身がアイヌと誤解されることもあった。アイヌの工芸と混同させることは、アイヌの人々に申し訳ないが、今さら名前を変えることもできなかった{{Sfn。各地の民芸の会合で木内と頻繁に顔を合せていた縁があった棟方は、木内の悩みを知って、自分が名付け親になると申し出、筆で「優佳良織之韻々」と書いた。「優しい」「美しい」「良い」を意味する字を使い、これが伝わるような織物を作るようにとの、棟方の想いであった。木内はこれに非常に感謝し、工芸館開館の1980年、「優佳良織」を正式な名称として採用した。 木内が工芸館の次にアイヌ工芸主体の工芸館を建てようと考えていたところ、木内の恩師でもある日本染織文化協会会長の上村六郎から、「私が収集した染織品をすべて寄贈するから、それを残す美術館を造ってもらいたい」と依頼があった。上村のコレクションは約2500点もあり、どれも貴重なものであった。京都市美術館からも誘いがあったが、上村は「役人には任せられない」と断ったとのことであった。木内は、アイヌの工芸館の計画も頭をよぎって迷ったが、上村は当時90歳を過ぎており、「すべてを託す」と言われると、とても断ることはできず、工芸館を断念して1986年(昭和61年)に国際染織美術館を開館し、上村が館長を務めた。
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