ごとべい‐どう〔‐ダウ〕【五斗米道】
五斗米道
五斗米道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)
「三国志 (北方謙三)」の記事における「五斗米道」の解説
張魯(ちょうろ) 道教教団「五斗米道」の教祖として漢中に割拠。安住の地を持つ現在に満足し、張衛の拡大志向には消極的である。 張衛(ちょうえい) 張魯の弟で、五斗米道軍を率いる。宗教にはあまり帰依しておらず、教義を利用し益州に王道楽土を築く野心を抱く。しかしその野心に較べ行動が伴わない甘さがあり、いつまでも夢を捨てきれずに現実と立場が乖離していく。蜀が魏五十万の大軍を撤退させたという事実に感銘を受け、義勇軍を率い叛乱を起こすが、既に乱世の終わった世界ではただの賊徒としか見なされなかった。最終的に呉の陸遜を頼ろうとするも朱桓の軍勢により討ち取られるという悲壮な最後を遂げる。 鮮広(せんこう) 本作独自の人物。張兄弟の叔父。五斗米道からは一歩身を引いた立場で張衛に助言する。
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五斗米道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:00 UTC 版)
詳細は「五斗米道」を参照 太平道よりやや遅れて、蜀で張陵によって五斗米道(天師道)が組織された。五斗米道も、道徳的反省を行い、鬼神の祟りを避けて病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。ただ、五斗米道では教説がより具体的になっており、『老子五千文』の学習が求められたほか、罪を反省する場としての「静室」の整備、罪に服する書を山神・地神・水神に奉納すること、春夏の殺生の禁止などが行われた。 五斗米道の組織は「治」を単位とし、最高指導者である「天師」のもと、それぞれの治は「治官」が統率した。これらは当時の官吏制度を模範に作られており、厳密な組織体系になっている。新たに入信した信者は「鬼卒」と呼ばれ、中堅幹部になると「祭酒」として信徒を統率した。祭酒は「義舎」を設けて米や肉を通行人に供与するなどの活動を行った。五斗米道は強固な教団組織のもと、政治と上手く折り合いをつけて徐々に発展し、3代目の張魯の頃には蜀から中原にまで広まっていた。魏の曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河や渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった。 『老子想爾注(中国語版)』は五斗米道の祭酒による『老子』の解釈書とされ、ここには信徒が熱心に道を治め、各自がその地位に安住することによって国が治まり、平和が訪れると説く。また、熱心に修練すればだれでも仙人になることができると強調している。
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五斗米道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
張魯(ちょう ろ、字・公祺) 五斗米道の教祖。漢中において、宗教という規則のもとに、人民すべてが平等に住まう小さな国造りを行う。曹操に降伏後、五斗米道を漢の国教とすることを進言するも、30余年漢中を統治した才覚のみを評価され、五斗米道の解体命令を下されてしまう。「国が滅びても民が求める限り信仰は生き続ける」という曹操の言葉から、この世に永遠に留まれるものはないことを悟り、一瞬にして老けこむ。その翌年死去。
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