九州平定
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九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」[注釈 1]、「九州攻め」、「島津攻め」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。
注釈
- ^ 「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。
- ^ なお、2005年(平成17年)の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』の今井執筆とされる箇所(今井は2003年に死去)では「九州攻め」の語を用いている
- ^ 義久の兄弟のうち、義弘も家久もこのとき主戦派であったが、ただ歳久のみは対豊臣和平を主張していた。しかし、最後まで秀吉に抵抗の姿勢を示したのも歳久であった。
- ^ 藤木久志は、この戦役について秀吉側が「征伐」と呼称しているのは、いったんは停戦令を受諾して使者を派遣しておきながら、最後に島津側が秀吉の国分案を拒否したことが許せないということによるものであろうとしている。藤木(2001)pp.153-154
- ^ 仙石秀久はいったん豊前小倉城に退却して淡路洲本城(兵庫県洲本市)に逃亡し、長宗我部元親も沖ノ浜から伊予日振島に逃れている。元親は戦場では嫡子を失ったことに衝撃を受け、単騎島津勢に向かおうとして家臣に制止されている。
- ^ 島津家久としては、府内城から大友義統を逐ったことで当初の目的は達したため丹生島城の力攻めは避けたという見解がある。小和田(2006)p.199
- ^ 雪窓院は現在廃寺となっており、義久剃髪石は「座禅石」と呼称されている。
- ^ ただし、櫛間地頭の伊集院久治は国割りに納得せず、翌年の2月まで櫛間城から退去しなかった
- ^ 石田三成・滝川雄利・小西行長・長束正家・山崎片家の5名を博多の町割奉行に任命し、その配下として下奉行30名を任じ、博多の豪商神屋宗堪・島井宗室に対して町割協力を要請、さらに、町衆に対しては問丸・座の廃止、地子諸役の免除、博多商船への違乱を取り締まることを告知した。
- ^ 4月17日、5月18日に没したとの説もある。『クロニック戦国全史』(1995)p.502
参照
- ^ 安田(1984)p.302
- ^ a b c d e f 小和田「秀吉の九州攻めと北九州の城」(2007)pp.129-132
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小和田(2006)pp.187-214
- ^ 熱田(1992)p.243
- ^ a b c 池(2003)pp.62-65
- ^ 藤木 (1985)
- ^ a b 藤木(2001)pp.153-154
- ^ a b c 小和田「戸次川の戦いと鶴賀城」(2007)pp.125-128
- ^ 岡本(1969)p.269
- ^ 尾下成敏「九州停戦命令をめぐる政治過程--豊臣「惣無事令」の再検討」『史林』93巻1号、2010年1月、44-45頁。
- ^ a b 池上(2002)p.154-155
- ^ 林屋(1974)pp.371-375
- ^ a b 今井 (2005) pp. 857-860
- ^ 岡本「島津の降伏」(1969)pp.271-273
- ^ 久保田正志「豊臣政権下での兵站整備とその限界-西欧との比較から-」『軍事史学』42巻2号、2006年9月。
- ^ a b c 池ら (1995)p.500
- ^ 乱世の終焉・九州平定 - 福岡市博物館
- ^ a b 毛利 (1997)
- ^ 山田 (2008)pp.314-317
- ^ 林屋 (1974) p. 375
- ^ a b c 三木 (1996) p. 187
- ^ a b 大賀 (1999) pp.180-182
- ^ 池ら (1995) p. 489
- ^ 池ら (1995) p. 501
- ^ a b c 福島(1983)
九州攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:38 UTC 版)
天正14年(1586年)8月29日、秀吉の九州平定に参陣するため、父・元春と共に新庄から出陣し、10月3日に輝元、元春、隆景、仁保元棟(後の繁沢元氏)、吉川経言(後の広家)らと共に九州へ渡った。10月4日に小倉城を包囲し、10月5日に攻略する。11月7日、父・元春が重病となったため元春を小倉城に帰し、元長と経言は小早川隆景・黒田孝高に従って、賀来専慶の籠る宇留津城攻撃に参加する。翌11月8日、宇留津城攻めで武功を挙げた益田元祥に太刀と馬を贈った。11月15日、父・元春が小倉城で病死。12月16日に大友義統の使僧から援軍要請の書状を受け取り、援兵を竜王岳に送った。 天正15年(1587年)4月6日、弟・経言と共に豊臣秀長の軍に合流した後、耳川を渡って根白坂の戦いに加わったが、同年5月に日向国で病に倒れた。6月5日に自ら起き上がれないことで最期を悟った元長は弟の経言を後継に推薦し、輝元と隆景も同意した。同日に元長は日向都於郡の陣中で病死した。享年40。
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九州攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
天正14年(1586年)8月、輝元は秀吉の島津氏に対する九州攻めにも参加した。 これは島津氏が大友氏の本領・豊後へと侵攻し、秀吉の出した惣無事令に違反したことにあった。だが、毛利氏は大友氏に対抗するため、島津氏とはこの九州攻めより以前から友好関係を保っており、軍事同盟が成立していた。また、義昭がその間を仲介し、本能寺の変後も義昭の使者として柳沢元政が下向しており、輝元自身も元政宛ての書状で「薩州こなた手合せの儀肝入」と記している。つまり、秀吉の九州攻めに参加するということは、皮肉にも宿敵であった大友氏を助け、良好な関係にあった島津氏と戦うということであった。 輝元は4月に秀吉から出陣要請を受けると、8月に自身は安芸より、月末には小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ九州に向けて進発した。そして、輝元は豊後へ到着し、豊臣軍の先鋒を任され、毛利勢は島津勢と交戦した。 天正15年3月、曲直瀬玄朔が秀吉の計らいで、罹病した輝元を診療して快癒させている。 天正15年5月、島津氏が降伏し、6月に秀吉は九州国分を行った。その中で、毛利氏の領国の転換を行おうとし、備前・伯耆・備後・伊予を収公して、豊前・筑前・筑後・肥後を代わりに与えようとした。だが、輝元は祖父が早い時期に進出した備後が含まれていたことから納得せず、秀吉は伊予以外の収公を断念し、隆景を伊予から筑前・筑後に移すことを提案した。 隆景は戦乱で荒廃した筑前・筑後を与えられても公役を果たすことはできないことや、自身が毛利氏から離れることが輝元を見捨てることに繋がると、この案にも反対した。結局、同年に筑前一国と筑後・肥前は隆景に宛てがわれ、隆景は毛利氏の経営から離れることとなった。 また、九州攻めの最中、輝元を支えてきた吉川元春・元長父子が病で死去し、毛利両川の体制が崩れることとなった。
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