上町台地の範囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:16 UTC 版)
大阪市域の本格的な地質調査は大大阪時代末期の1930年代に遡るが、資料の大半が戦災で失われ、信頼できる大阪平野全域の沖積層の基底等深線図が日本建築学会により作成されたのは昭和41年(1966年)になってからである。 上町台地は洪積台地であり、大阪層群の上に成立する中位段丘層である上町類層を基礎としている。北部の天満層とは地質学的に不整合であり、上町台地の北端は大阪城と考えられる。また、台地の全容は、古地図や戦後実施された大学や行政、また、高層建築物の建設際の地盤調査の際に行われるボーリング調査等の地層断層検査などの結果から5世紀頃において既に砂嘴として形成されていたと予想される高地部分を上町台地と推定している。 上町台地は縄文期には東西を河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴だったと考えられており、弥生期から現在に至る期間を経て台地東部(東成地区の語源と言われる)は淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が河内湖、湿地帯を経て沖積平野となり、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するに至った。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が広く分布している。なお、台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24メートル、中央部の天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6メートルとなり細井川を越えた台地南端の住吉区清水丘では標高は2 - 3メートルとなっている。 なお、台地の範囲を四天王寺付近までとする見解もあるが、台地表層の開発利用状況から見ての明治期以前に拓けていたか否かを分岐とする考え方から来ているものと考えられる。そもそも、江戸時代までは河内(かわち=大阪東部の旧国名)を形成していた大和川が柏原から北へ蛇行し現在の東大阪市から大東市辺りに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市中央区天満橋辺りであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、天王寺区、阿倍野区、住吉区北端と南部の一部にわたっている。 上町台地上には「○○山」や「○○丘」という地名が多く、北から天王寺区の「真田山」、「北山」、「桃山」、「夕陽丘」、「茶臼山」、阿倍野区の「晴明丘」、「丸山」、住吉区の「帝塚山」、「清水丘」と続く。
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