ヴィープリ奪回・ポルランピ包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 08:40 UTC 版)
「フィンランドのカレリア地峡再占領」の記事における「ヴィープリ奪回・ポルランピ包囲」の解説
スタフカはただならぬ状況を認め、8月20日には防衛線まで後退することを認めた。この防衛線はヴィープリからスヴァント湖とタイパレーン川を通ってヴオクシ河口まで走っているものであり、新しい防衛線であったが準備ができていなかった。この判定によって前線は見違えるほどに短くなった。しかし、この決定は先月までに国境線に準備されていた架設の防衛線を放棄することも意味していた。 フィンランド側は独自に南部の国境線から攻撃を開始する準備を行っていた。ソ連軍が国境線を破棄して退却を始めたのを知ったのは8月21日のことであった。準備を行っていたフィンランド軍は即時追撃を開始するように命令された。ソビエト第43師団(MJ.Gen. V. Kirpitsnikov)は移動先のヴィープリの北西で迎撃を開始した。しかし、フィンランド第12師団(Col. Vihma)を停止させることはできず、第12師団はヴオクシ川右岸を進攻し続け、フィンランド第18師団と接触した。これによって第18師団が保持してきたヴオサルミ近郊の橋頭堡を拡大し、8月22日には右岸も全体がフィンランド側の手に落ちた。これによってフィンランド軍は渡河を開始する。ソビエト第123師団(MJ.Gen. F. Aljabusev) はヴィープリの南西を防衛していた。123師団の大多数の兵力と第115師団(MJ.Gen. Konjkov)の大多数の兵力はヴオクシ川上流の防衛線から急いで撤退したために未だ組織化が完了していなかった。フィンランド第4師団はサイマー運河沿いに進撃を続け、ソビエト第43師団を北部方面へ押しやった。8月23日に最南部にいたフィンランド第8師団(Col. Winell)はヴィープリ湾の西岸からユクスパーン川(Ykspäänjoki)までを制圧した。また、湾を渡る準備も始めた。 8月23日の間、フィンランド軍はヴィープリ東部8kmの位置に進攻した。しかし、翌24日の朝ソビエト第123師団と第115師団がヴィープリ東部に位置するフィンランド軍に対する反攻を始めた。これはおそらくこの戦闘に対するイニシアチブを回復し、フィンランド軍をヴオクシ川北岸まで追い返す攻撃であったと考えられる。砲火を充分に使うことでソ連軍は守備に回ったフィンランド軍を5kmほど押し返すことに成功したが、フィンランド軍の前線に穴を開けることができなかった。その時予備軍に回っていた第12師団第26歩兵連隊は既に兵力交代でその場所に向かっていたために、ソ連軍は次の日には元の位置まで押し返された。ソ連の反撃は失敗に終わり、フィンランド第12師団に既におりていた命令に影響もでることはなかった。フィンランド第12師団は既に降りていた命令通りに攻撃を続け、ヴィープリ-レニングラード間の鉄道付近まで進軍、8月25日からはヴィープリ-レニングラード間の主要な鉄道を切断した。 8月24日の朝、フィンランド第8師団は第45歩兵連隊第三大隊と共にヴィープリ湾を渡り、同日、リハニエミ半島に、安全に上陸が行われた。上陸後、攻撃を続け、次の日にはヴィープリから外部に向かう最期の鉄道線を切断し、橋頭堡を数キロメートル拡大、次の2日間で全ての命令を完了した。第12師団は南西に攻撃を続け8月27日までにヴィープリ-レニングラード間の道路も全て切断した。 8月28日、スタフカは第23軍にヴィープリからの撤退を許可し、イェラー(Ylä)からソンメ(Somme)間に新たにもうけた防衛線に撤退することを決定した。この防衛線はマンネルハイム線とほとんど同じ位置に位置していた。ソ連軍は即時撤退を始め、強行的に道路を通過しようと試みた。イェラーからソンメへの突破が成功したのは8月28日の夕方のことであり、夜の間にフィンランド軍の砲火の下を幾つかのトラックや輸送列車で通り抜けた。砲火の為にいくらかの犠牲が生じ、道路は血で満ちた。包囲は狭まっていき最終的に車両を捨てて通らざるを得なくなった。この日から二日間にかけて、ソ連軍はヴィープリ湾に繋がる鉄道線を奪回しようと試みたものの、8月30日の夕方には第12師団第3歩兵連隊が第8師団と合流し、ポルランピ近郊でのモッティ戦術が始まった。 8月31日、ソビエト側は包囲を解こうと試みたが、これにも失敗した。フィンランド軍の包囲は徐々に狭まり、最終的には人名だけでも助けようと車両を放棄し、徒歩で森を通って逃げることを選択した。包囲の輪は更に狭まり続け、夜には小規模な部隊が逃げ出した。士気はどんどん下がり続け、次の日に残っていた兵士たちはとうとう降伏した。9000人もの降伏兵を捕らえ、7000人の死者が埋められた。包囲の輪がしまりきる前に12,000人の兵士がなんとか逃走した。フィンランド側はこの包囲によって306門の砲、55台の戦車、637両のトラック、300両のトラクター、4500匹の馬を鹵獲した。
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