ルソーとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 19:00 UTC 版)
同時代に活躍したジャン=ジャック・ルソーとの最初の出会いは、ヴォルテールが宮廷での余興劇『ラミールの祝宴』を音楽家であるジャン=フィリップ・ラモーと共同で書き、その仕上げの加筆をルソーに任せたときだった。ルソーはヴォルテールに手紙を書き、ヴォルテールも愛想良く返信している。しかし、彼らは晩年、お互いに大きな溝を作り、距離を置くようになる。1755年、ルソーが『人間不平等起源論』を発表した頃には、まだ、ヴォルテールはルソーに対し同書を熱烈に賞賛する手紙を送り、ルソーも深く感謝する旨の返信をするような良好な関係であった。けれど、その数か月後、同じく1755年のリスボン地震以降、社会では、神の全能や神の慈悲を懐疑する、キリスト教信仰擁護者への問題提起が起きた。一貫して極めて無神論に接近した理神論に身を置くヴォルテールは、かねてからキリスト教への批判を展開しており、地震のすぐ直後には『リスボンの災禍に関する詩』を発表して、そうした主張を展開した。このような動きのなか、ルソーはジュネーヴの牧師から神の摂理を弁護するよう依頼を受け、ヴォルテールに対してその主張を痛烈に批判する書簡を送っている。ヴォルテールは論争の意志を見せず、さらにルソーからのその手紙の文学的センスを賞賛したところ、ルソーは激怒。こうした経緯は、二人の表面上の関係が遠ざかっていくことを決定的付けたと言える。しかし、表面上どうであれ、その後も互いに意識はしていたようである。例えば、ヴォルテールは、1759年にゴットフリート・ライプニッツの哲学を批判的に風刺した『カンディード』を発表したが、その著作についてルソーは1760年代中期以降に執筆した『告白』において『カンディード』など読まないとヴォルテールを突き放しているが、しかし、1760年6月にルソーがヴォルテールに宛てた書簡を見ると、その実、ルソーは『カンディード』を読んでいることを窺い知ることができるのである。一方、ヴォルテールは、1761年にルソーが『新エロイーズ』を発表すると、同作を痛烈に批判する手紙を無署名で複数書いている。彼らの関係は悪化の一途を辿った。1764年、ルソーは『山からの手紙』のなかで、自身がジュネーヴに追放されたことについて、ヴォルテールのせいであると告発し、また、ヴォルテールが著者であることをかくして旧約聖書への攻撃的批判である『サウル』を発表すると、ルソーはヴォルテールを名指しで攻撃した。そうした経緯に激怒したヴォルテールは『市民の見解』を発表し、ルソーを追放したジュネーヴの牧師たちの味方として、ルソーの人間像を批判的に描いた。その後は、1768年、風刺詩『ジュネーヴの市民戦争』のなかでも、ヴォルテールはルソーを攻撃している。そして、これが公然と行われたものとしては、ヴォルテールのルソーに対する最後の攻撃となる(以上、ルソーの節)。
※この「ルソーとの関係」の解説は、「ヴォルテール」の解説の一部です。
「ルソーとの関係」を含む「ヴォルテール」の記事については、「ヴォルテール」の概要を参照ください。
- ルソーとの関係のページへのリンク