ルソン島南部とアパリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:10 UTC 版)
「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の記事における「ルソン島南部とアパリ」の解説
ロスバニョスの抑留者が解放された翌日、第6軍司令部は、第11空挺師団に対し、マニラ以南のルソン島南部から日本軍を完全に排除するように命じた。師団のうち第187グライダー歩兵連隊と第511パラシュート歩兵連隊が、翌日には南部に移動を開始した。第188グライダー歩兵連隊はスウィング少将の命令で、2個連隊とは分離し、マニラ湾南岸沿いのピコ・デ・ロロ丘陵地帯で活動している全ての日本軍部隊を排除した。この部隊は、山下奉文大将が指揮した第14方面軍の第41軍という約8万人から成る部隊に属していた。第11空挺師団は、フィリピン兵やゲリラ、第1騎兵師団を協力し、4月末までかかり第41軍を制圧した。特に山岳地蓼の戦闘作戦は、多くの日本軍部隊が降伏を拒否し、死ぬまで戦ったため、非常に困難を極めた。しかし、ルソン島南部における日本軍の組織的抵抗は5月1日に終了し、第11空挺師団はリパ市近くのマレプニョ山を占領した。その後、リパ市郊外にある旧日本軍飛行場の滑走路を中心に基地を建設した。滑走路は、C-47輸送機の離発着を可能にするため、第127空挺工兵大隊によって延伸された。基地の建設作業を終えると、第11空挺師団の戦闘部隊は、戦闘経験を生かした訓練に参加した。 第11空挺師団の次の作戦は、6月23日にルソン島北部のアパリ県で行われた。この時まで島に残っていた唯一の日本軍は、第14方面軍の約5万2,000人の日本兵だった。この残存部隊は、特に抵抗が強力で、第6軍司令官のウォルター・クルーガー中将は、4個歩兵師団、機甲機動部隊、フィリピン公認ゲリラ集団から成る大戦力を投じなければならなかった。これらの部隊が日本軍を圧迫する中で、そのうちの一つだった第37歩兵師団が北方への進撃を開始し、より弱い日本軍部隊を排除し、日本軍主力を包囲した。第37歩兵師団の作戦を成功させるために、クルーガー中将は、第11空挺師団にアパリ近くに降下し、北進する第37歩兵師団の反対側から南下するように要請した。 第11空挺師団は、アパリの南約10マイル(16 km)に位置するカマラニウガン飛行場に大隊規模な戦闘団を降下することになった。その後、南に進軍しながら日本軍の抵抗を排除し、第37歩兵師団と合流する作戦を立てた。これを成功させるためにスウィング少将は、第511パラシュート歩兵連隊第1大隊、第2大隊G中隊、I中隊、第457パラシュート野戦砲兵大隊の砲兵隊、工兵隊、通信分遣隊、衛生分遣隊から成る機動部隊をジプシー機動部隊として編制した。ジプシー機動部隊は54機のC-47輸送機、13機のC-46輸送機、6機のウェーゴCG-4グライダーによって輸送され、ジープと物資とともに降下した。6月21日、第11空挺師団の先遣隊がカマラニウガン飛行場を確保するために周辺に降下した。2日後にジプシー機動部隊を乗せた輸送機が出発した。9時に先遣隊が降下地点を示すためのマーカーを発したが、飛行場周辺は激しい風と乱れた地面のため、降下部隊にとって危険であると判明した。結果的に空挺降下を強行したが、降下中に2名が死亡し、70名が負傷した。この死傷者にも関わらず、部隊は迅速に集合し、南部への進軍を開始した。日本軍の抵抗は激しく、空挺部隊は火炎放射器に頼り、進路上の要塞や塹壕を排除していった。3日間の戦闘の結果、第14方面軍の大部分を殲滅した機動部隊は、第37歩兵師団と合流した。第14方面軍は、9月まで抵抗を続け、それに対する包囲戦が第11空挺師団の第二次世界大戦における最後の戦闘となった。
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