メス攻囲戦とは? わかりやすく解説

メス攻囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/20 13:00 UTC 版)

メス攻囲戦
戦争普仏戦争
年月日1870年9月3日 - 10月23日
場所フランス北東部モゼル県メス
結果プロイセン王国の圧勝
交戦勢力
プロイセン王国 フランス帝国
指導者・指揮官
フリードリヒ・カール王子 フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥
戦力
13万4000名 19万名
損害
- 捕虜18万6000名
普仏戦争
  • ヴィサンブール
  • フォルバック=スピシャラン
  • フシュヴィレール=ワシュ
  • ボニー=コロンベ
  • ストラスブール
  • マーズ=ラ=トゥール
  • サン=プリヴァ
  • メス
  • ボーモン
  • ノワスヴィル
  • セダン
  • ベルヴュー
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  • ハバナ
  • コルミエ
  • ブルトヌー=ヴィラール
  • ボーヌ=ラ=オランド
  • オルレアン
  • ラニュ
  • バポーム
  • ヴィレーセクセル
  • ル・マン
  • ラ・リゼーヌ
  • ディジョン
  • サン=カンタン
  • ビュザンヴァル
  • パリ
  • ベルフォール

メス攻囲戦(メスこういせん、フランス語:Siège de Metz, ドイツ語:Belagerung von Metz)は、普仏戦争における戦いの一つで、セダンの戦いを引き起こして戦争の趨勢(すうせい)を決定付けた[1]

概要

グラヴェレットの戦いに敗北した後、バゼーヌ元帥率いるフランス第三軍団はさらなる攻撃を見越して要塞があるメスへの退却を余儀なくされた。プロイセン第1軍および第2軍の合わせて15万人がメス要塞を包囲したため、バゼーヌ元帥はメスに籠城した。兵力の不足が懸念されたため、マクマオン公爵のアルザス軍が救援として送られた。マクオマンはランスの北部へ移動し、そこから南へ転進してプロイセン軍の左側面から攻撃する計画を立て、8月21日に実行に移した。9月1日にプロイセン軍主力部隊によって全軍が捕虜となってしまった。フランス軍は救援を得ることができず、しかも戦意をほとんど喪失してしまう。そのため、しばらくは持ちこたえたもののほとんど戦うことなく10月23日には降伏勧告を受け入れた。メス攻囲戦とセダンの戦いでの損害を合わせると30万人となり、フランス帝国の戦争の勝利はほとんど不可能となものとなった[1]

脚注

  1. ^ a b メス攻囲戦|戦車兵のブログ”. 2024年5月20日閲覧。

メス攻囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:47 UTC 版)

フランソワ・アシル・バゼーヌ」の記事における「メス攻囲戦」の解説

8月19日メスメッツ要塞後退したライン185千人(第軍団第Ⅲ軍団、第軍団、第軍団、第軍団帝国親衛隊、および予備騎兵)は168千人プロイセン軍第1軍及び第2軍包囲されることとなったメス要塞当初7万人を3ヵ月半から5ヵ月養う程度食糧しか備蓄しておらず、籠城軍全体配分した場合41分の食糧および25日分のオート麦(シリアル)しかない見積もられていた。早期包囲打開しシャロン軍と合流する必要に迫られたバゼーヌは、8月31日に4の兵をもって包囲打開試みるものの敗北一方、翌9月1日にはセダンにおいてもシャロン12万人敗北しナポレオン三世ともども降伏する事態となっており(セダンの戦い)、救援望みなくなっていた。 バゼーヌのライン軍はこのシャロン降伏以降フランス最後の希望となったものの行動消極であった10月7日および10月18日それぞれ包囲突破試みたもののいずれも失敗し合わせて7,000~10,000程度損害被っている。10月20日にはついに食糧庫が払底したため、輜重馬、さらには騎兵馬を合わせた2万頭の軍馬食肉として毎日1000頭ずつ消費する状況陥った飢餓疾病これまでの度重なる敗北により要塞内において2万人ほどが野戦病院詰めかけるような有り様であった(一方プロイセン軍も4万人ほどが疾病であった)。10月27日苦渋の末バゼーヌはついに173千の兵とともに降伏した(→メス攻囲戦)。降伏に際してプロイセン軍はその名誉のための会戦を提示したがバゼーヌは拒否している。この戦い9月1日セダンの戦い敗北により、正規軍49万人のうち30万人以上を失ったフランス敗戦決定的となる。以後普仏戦争は続くものの1871年1月パリ陥落第二帝政崩壊した。 バゼーヌの普仏戦争中の一連の不本意な敗北に関しては、彼自身自軍兵備に対して大きな不安を抱いており、積極策を取る事を躊躇したことが原因一つと言われている(彼が開戦直後友人宛てた手紙中に、"Nous marchons a un desastre"「我々は敗北に向って進んでいる!」という一節がある)。だが一方で攻囲軍側の将官にバゼーヌの外人部隊時代同僚がいたことや、バゼーヌ自身政治的野心などから、彼がプロシア側と内通図っていたのではないかという疑惑根強くあり、またその意見当時フランス世論大勢占めたことで、結果的にこの行動が彼を窮地陥らせることになった

※この「メス攻囲戦」の解説は、「フランソワ・アシル・バゼーヌ」の解説の一部です。
「メス攻囲戦」を含む「フランソワ・アシル・バゼーヌ」の記事については、「フランソワ・アシル・バゼーヌ」の概要を参照ください。

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