ミードとグラント
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「ジョージ・ミード」の記事における「ミードとグラント」の解説
1864年3月に、ユリシーズ・グラント中将が北軍総司令官に指名されたとき、ミードは辞任を申し出たが、グラントはこれを拒み、ミードとそのポトマック軍はグラントの下に就くことになった。グラントは戦争の残り期間、その本部をミードと共にし、そのことでミードはグラントから受けた密接な監督に神経を磨り減らされることになった。1864年6月、フィラデルフィア・インクワイアラー紙の記者エドワード・クロプシーの不都合な記事をミードが叱りつけた事件の後、その軍隊担当の全ての記者がミードに付いては悪いことのみを扱うと申し合わせた。ミードはこの手配について明らかに何も知らず、全ての手柄をグラントに持っていく記者達のやり方がミードを怒らせた。 ミードとグラントは様々な相違点があり、さらに2人の間の摩擦が深まった。グラントはリー軍に対するオーバーランド方面作戦で消耗戦を遂行しており、北軍は兵士の入れ替えができ、一方南軍はそれができないことを知って、以前では認められなかった損失も敢えて受けることにしていた。ミードは、1862年の下級指揮官のときの攻撃的な功績にも拘らず、より慎重な将軍となり、塹壕に潜む敵に対する攻撃の無意味さを心配するようになった。オーバーランド方面作戦でミード軍が蒙った損失の多い反撃の多くはグラントに命じられたものであり、結果的にリー軍をピーターズバーグ周辺の塹壕に追い込んだ攻撃的操軍もグラントの主導によっていた。ミードの憤懣をさらに募らせたことは、グラントが西部戦線から連れてきた部下達に時として好意的な扱いをするやり方だった。この主要な例として、ミードがフィリップ・シェリダンの騎兵軍団に与えた指示をグラントが妨げたことがあった。ミードはシェリダンの部隊が伝統的な騎兵の機能である偵察、遮蔽、および兵站部隊の護衛をすべきと主張した。しかし、シェリダンは直接グラントに掛け合って南軍の騎兵隊やリッチモンドに対して戦略的な襲撃を掛ける許可を得た。 ミードは一般に、グラントの監督の下でオーバーランド方面作戦やリッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦を効果的に遂行したが、少数の悪い判断の例が彼の評価を傷付けている。コールドハーバーの戦いのとき、ミードはその軍団指揮官の監督が不適切であり、その悲惨な正面攻撃の前に偵察を行うよう主張しなかった。不可解にも、攻撃の後直ぐに妻に手紙を書き、攻撃を命じたのは自分だと誇りを表明した。ピーターズバーグの最初の攻撃のとき、リー将軍が前線の補強をする前に再びその軍団の攻撃の連携を取らせることができなかったために、ピーターズバーグ包囲戦という10ヶ月もの手詰まりを生むことになった。ミードはアンブローズ・バーンサイドが立案したピーターズバーグ東の南軍前線下に坑道を掘り爆弾を仕掛けるという作戦を承認したが、最後の瞬間にバーンサイドの作戦であるまさにこの作戦のために高度の訓練を積んだアフリカ系アメリカ人の師団で攻撃を導くという案を変更し、政治的に危険度の少ないやり方を採り、訓練されておらずお粗末に引率された白人の師団を充てるという代案に置き換えた。クレーターの戦いの結果はこの戦争の中でも最大級の失敗となった。これら全ての場合に、グラントはミードの作戦を承認した責任の一端を取ったが、ミードはゲティスバーグで示したような高度の能力を現すことは無かった。 スポットシルバニアの戦い後、グラントはミードが正規軍の少将に昇進することを要請した。1864年5月13日、陸軍長官エドウィン・スタントンに宛てた電報で、グラントは「ミードは私の最も楽天的な予測に合う以上のものを持っている。彼とウィリアム・シャーマンは私が接触してきた大部隊の指揮官の中では最も適した者達だ。」と述べた。ミードはその名誉ある昇進がシャーマンや自分の部下であるシェリダンの後に行われたことに侮辱を感じた。しかし、ミードの昇格日付は、戦争の終わった時点で、グラント、ハレックおよびシャーマンにのみ越えられたことを意味していた。ミードはアポマトックス方面作戦でも戦ったが、グラントとシェリダンがその評価の大半を得た。ロバート・E・リーがアポマトックス・コートハウスで降伏したとき、ミードは同席しなかった。
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