クレーターの戦い
クレーターの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 17:09 UTC 版)
「アンブローズ・バーンサイド」の記事における「クレーターの戦い」の解説
1864年7月に南北両軍はピーターズバーグで塹壕戦という手詰まりに直面し、バーンサイドはその配下にいたペンシルベニア炭坑夫連隊に示唆された作戦に合意した。南軍が塹壕を設けている砦の下に横穴を掘り、そこで爆発物を仕掛けて急襲を掛けるというものだった。7月30日に砦は破壊され、クレーターの戦いと呼ばれるものになった。歩兵が攻撃するほんの数時間前に、ミードからこの任務のために特別の訓練を施した黒人師団を使わないようにと言う命令を受け、その代わりに訓練されていない白人の部隊を使うことを強いられた。バーンサイドはどの師団を使うべきかを決められず、3人の配下指揮官がくじを引いた。偶然選ばれた師団はジェイムズ・H・レドリー准将が率いる師団だったが、レドリーは部下が何をすべきかを説明できず、戦闘中は戦線のはるか後方で酒を飲んでおり指揮を執れなかったと言われている。レドリーの部下は巨大なクレーターを回り込む代わりにその中に入って罠に嵌り、穴の縁から南軍に激しい砲火を浴び、大きな損失を出した。 バーンサイドは8月14日に解任され、グラントによって休暇扱いとされた。ミードがバーンサイドを呼び戻すことは無かった。後の調査委員会でクレーター失態の責任はバーンサイドとその部下にあるとされた。12月、バーンサイドはリンカーン大統領とグラント将軍に会い、その将来について相談した。バーンサイドは除隊を予期していたが、リンカーンとグラントは軍隊に留まることを求めた。インタビューの最後で、「私は自分が担当すべき任務について知らされてはいない」と書いた。最終的に1865年4月15日、バーンサイドは辞職した。
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