ミネソタ州を中心とした鉄道建設の動き
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「ジェームズ・ジェローム・ヒル」の記事における「ミネソタ州を中心とした鉄道建設の動き」の解説
1857年、ミネアポリス・アンド・セント・クラウド鉄道(M&StC)とミネソタ・アンド・パシフィック鉄道(M&P)が設立された。M&StCについては後述する。路線は、セントポールから西へ向かい、ミシシッピ川を渡り、のちに双子都市といわれるようになるミネアポリス(当時はセントポールと州都争いをしており、両都市は反目していた)を経てダコタ準州との境界であるレッド川沿いのブレッケンリッジまでの幹線と、ミシシッピ川手前で分岐し、ミシシッピ川に沿って北上、クロウ・ウイングまでの支線が計画された。 1862年、建設途中に資金繰りが悪化し、M&Pは倒産したが、それは形式的なもので、負債以外をすべて引き継いだセント・ポール・アンド・パシフィック鉄道(StP&P)が新たに設立され、資金を集めて一部開業にこぎつけた。1864年、経営陣の思惑の違いから支線がファースト・ディビジョンという別会社となった。 それとはまったく別に、1864年、ワシントン準州の初代知事であるイザーク・スティーブンス(Isaac Stevens)の政府への働きかけにより、五大湖と太平洋北部とを結ぶノーザン・パシフィック鉄道(NP)の設立特許が下りた。資金集めに難航し、1870年2月に着工。同年7月には、StP&Pの株式の3分の2を取得して、同年末にはファースト・ディビジョンがNPの子会社となる。複雑な金融資本のしがらみから、これら三鉄道は合併はしていない。また、ここまでの流れには、ヒルは関与していない。なお、NPが太平洋岸までの建設を終了したのは1883年である。 前述のように、資金難なのに鉄道建設を進めた結果、1873年恐慌(Panic of 1873)が起こる。多数の鉄道が倒産し、StP&Pも倒産した。NPはかろうじて倒産を免れた。StP&Pは、前述の通り強いしがらみの中にあり、将来的な展望が開けない状況にあったが、この倒産劇は、ヒルにとっては絶好の機会であった。3年間、ヒルはStP&Pを徹底的に調べると、StP&Pは初期投資さえすれば、利益を生み出せる鉄道であるとの結論に達した。ヒルはノーマン・キットソン(Norman Kittson)、ドナルド・スミス(Donald Smith)、ジョージ・スティーブン(George Stephen)、ジョン・スチュワート・ケネディ(John Stewart Kennedy)らと組んだ。彼らは鉄道を購入しただけではなく、線路通行権をNPに安価で提供し、相当な距離の路線の延長も果たした。1879年5月、ヒルら四人はStP&Pを清算、改組し、セント・ポール・ミネアポリス・アンド・マニトバ鉄道(通称マニトバ鉄道、StPM&M)を設立。ヒルの最初の目標は、鉄道の延伸と改良であった。 当時の見立てでは、ヒルは実践的な、細かい点にこだわる経営者であった。ヒルは人々が沿線に住むことを欲し、まず家屋敷を人々に販売したのちに移住させた。彼はロシアから穀物の種子を輸入し、それを農家に販売した。また燃料用の木材も販売した。鉄道をどのルートで通すかを検討するときは、自ら馬に乗り、自身で偵察に行った。彼のマネジメントの元で、マニトバ鉄道は発展した。1880年にはマニトバ鉄道の価値は72万8,000ドルだったものが、1885年には2,500万ドルになった。 彼の試みの一つとして、連邦政府による介入を避けたことがある。もし合衆国政府が鉄道が莫大な利益を生むと見なしたならば、政府は鉄道の運賃引き下げを迫るに違いなかったが、ヒルは鉄道の利益は鉄道への投資へと還元することで回避した。こうした投資は運営コストを増加させた。そしてヒルはマニトバ鉄道の社長となり、路線を拡大する方向に向かう。 拡大するなかで、ミネソタ州最初の鉄道のひとつ、ミネアポリス・アンド・セント・クラウド鉄道(M&StC)を買収する。そして、この小さな鉄道をグレート・ノーザン鉄道と改称した。この小さな鉄道が巨大な鉄道システムとなっていたマニトバ鉄道をリースする形をとり、あたかも、持株会社と運営会社のような関係になった。
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