ポーランド戦後、装甲師団長に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「ポーランド戦後、装甲師団長に」の解説
ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた(実際に英仏は宣戦布告を行っただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃が行われる様子はほとんどなかった)。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的に勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが、ヒトラーはこうした反対を退けフランス侵攻を決意した。 ポーランド戦後、ベルリンで退屈な日々を送ることになっていたロンメルは、来るフランス戦では前線勤務を求め志願した。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で許可された。 こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団(de)の師団長に任命されることとなった。ちなみにフランス戦においてはドイツ軍136個師団のうち装甲師団は10個師団しかなく、そのうちの一つである第7装甲師団が有する戦車の数は225両だった。I号戦車(機関銃のみ)34両、II号戦車(2センチ砲)68両、III号指揮戦車(火砲の代わりに指揮用の大型無線機が付いた車両)8両、IV号戦車(短砲身7.5センチ砲)24両、ドイツがチェコを併合した後に獲得したチェコスロバキア製の38(t)戦車(3.7センチ砲)91両である[要文献特定詳細情報]。師団の多数を占める38(t)戦車は装甲が薄いが、重量は9トン足らずであったので速度が速く、対フランス戦のような機動戦に非常に向いていた。普通のドイツ軍装甲師団は2個装甲連隊と2個狙撃兵連隊で編成されたが、第7装甲師団は、狙撃兵連隊は通常通り2個連隊あったが、装甲連隊は第25機甲連隊が1個だけで(この装甲連隊は2個装甲大隊で編成された)、他に装甲連隊に属さない1個装甲大隊があるだけだった。 積極的な歩兵攻撃論者だったロンメルだったが、彼は驚くべき早さで戦車の運用知識を身に付けてゆき、2月27日にベルリンへ飛び、ヒトラーに師団長就任の報告をした。ヒトラーより「楽しい思い出と共にロンメル将軍に贈る」と書き添えた『我が闘争』を贈られた。 参謀本部はヒトラーにフランス侵攻作戦案を提出したが、一次大戦のシュリーフェン・プランと大差ないことからヒトラーが却下し、紆余曲折の末、A軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将の立案による「マンシュタイン・プラン」が採択された。これは装甲師団を中央のA軍集団に集中させ、ベルギー南部のアルデンヌの森(この森は道がないため、戦車の機動は困難と考えられており、フランス軍はここを手薄にして「アルデンヌの間隙」を作っていた)を突破し、英仏海峡まで一気に進軍させ、ベルギー・北フランスに展開する連合国主力を孤立させるというものだった。 ロンメルの第7装甲師団は、A軍集団(de)(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第4軍(司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将)隷下の第15装甲軍団(軍団長ヘルマン・ホト大将)の隷下となった。同じ第15装甲軍団隷下に第5装甲師団(de)があった。 第7装甲師団の任務は先頭に立ってアルデンヌの森を通過し、エヴァルト・フォン・クライスト大将率いる「クライスト装甲集団」(5個装甲師団から成る)を北の連合国主力の攻撃から守り、英仏海峡までの西進を邪魔されないようにすることにあった。しかしロンメルは自分の師団も英仏海峡まで一気に進軍させようと思っていた。
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