ポーランド摂政王国と中央同盟国の講和案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「ポーランド摂政王国と中央同盟国の講和案」の解説
1916年11月5日、中央同盟国によりロシア領ポーランドはポーランド摂政王国として建国した(11月5日勅令(英語版)も参照)。しかし、中央同盟国が予想したポーランドからの軍事支援は実現せず、少数のポーランド軍団(英語版)(7月までユゼフ・ピウスツキが率いた)が中央同盟国側で戦ったのみである。ポーランド軍団は翌年にポーランド軍(英語版)になった。ほかにもポーランド人数十万人が(独立ポーランドの国民ではなく)ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア国民として各々の軍に従軍した。 中央同盟国はルーマニアに勝利した後、12月12日に中央同盟国の講和案(ドイツ語版)を提出したが、30日に拒絶された。
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