ペルシア遠征とは? わかりやすく解説

ペルシア遠征(363年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:14 UTC 版)

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「ペルシア遠征(363年)」の解説

サーサーン朝シャープール2世は、ディオクレティアヌス以来均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつてのアケメネス朝領土の返還迫ってローマ帝国戦端開いたローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウス東方国境から撤退してしまった。したがってユリアヌス皇帝となったとき、コンスタンティウス治世持ち上がった懸案解決しておらず、ローマ東方国境は再びサーサーン朝攻勢晒されていた。 363年3月5日ユリアヌスは8から9の兵を率いてアンティオキア発った。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌス時代ローマ帝国亡命していた、シャープールの弟ホルミズド (Hormizd) を伴っていた。まずはアルメニア王アルサケスに食糧援軍提供するように指示出しヒエラポリス(現マンビジ)にて補給態勢確認行ったのち、ユーフラテス川渡ってメソポタミア入ったメソポタミアカルラエ(現ハッラーン)では、プロコピウス (Procopius) とセバスティアヌスに3の兵を預けアルメニア援軍合流してメディア征服するように命じたユリアヌス率い本隊ユーフラテス川沿いのカリニクム(現ラッカ)に向かい遠征のために編成され艦隊合流した艦隊は約千艘の船からなり食糧武器攻城兵器積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発った後はキルケシウム (Circesium) (現ブセイラ)にてハブール川渡りそのままユーフラテス川下ったアンミアヌス記録には、途中経由陥落占領焼き討ち)した都市としてドゥラ・エウロポスアナタ (Anatha) 、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている。このうちオゾガルダナには、トラヤヌスパルティア遠征時に建てられ裁判所遺構残されていた。 その後はピリサボラ (Anbar) を陥落させ、運河ナハルマルカに到達したトラヤヌスが船を運んだ経路残っていたため、ユリアヌスはこれを開きユーフラテス川からティグリス川へと船を移した。こうしてユリアヌスクテシフォン間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機逸したために占領失敗したティグリス川から南下してくるはずの援軍到着せずシャープールの軍も接近しつつあり、情勢芳しくなかったクテシフォン近郊留まることを断念したユリアヌスは、艦隊焼き撤退移ったプロコピウスセバスティアヌス部隊目指しティグリス沿いに北上したが、6月26日敵襲に対して指揮とっている際に投槍を受け、陣中没した死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。 撤退中の陣中選ばれ新たな皇帝ヨウィアヌスは、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件シャープール講和した。 サーサーン朝は、アルザネネ (Arzanene) 、モクソエネ (Moxoene) 、ザブディケネ、レヒメネ、コルドゥエネ (Corduene) の5つのトランスティグリタニア地方15の砦とともに得る サーサーン朝は、ニシビス (Nisibis) 、シンガラ (Singara) 、カストラ・マウロルムを得る ローマ帝国は、ニシビスとシンガラから、軍と住民退去させてよい ローマ帝国は、今後一切、アルサケスを助けサーサーン朝対抗しない これにより、サーサーン朝側の優勢決定的となり、さらにローマ帝国北方国境にも問題抱えていたため、以後両国間に大規模な武力衝突なくなった4世紀末にテオドシウス1世一時攻勢出たが、東方国境以外に不安要素抱えていたため、アルメニア東西分割してその西側一部ローマ側ものとするのが限界であったユリアヌスのような大規模な遠征は、6世紀半ばユスティニアヌス1世征服活動を待つことになる。

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ペルシア遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:34 UTC 版)

スチェパン・ラージン」の記事における「ペルシア遠征」の解説

カスピ海乗り出したラージンは、デルベントからバクーに至るペルシアカスピ海沿岸荒らしラシュト中央市場では住民の大殺戮及んだ1669年の春、スイナ島を収めたラージンは、7月にはペルシア艦隊撃滅ステンカ・ラージンは手のつけられない存在となった1669年ラージンは再びアストラハン現れ、そこで皇帝アレクセイ1世恩赦受けた人々ラージン活躍魅せられていった。アストラハンのようなロシアの国境地帯はまだ無法地帯で、人々いまだに遊牧民的であり、ラージン武装蜂起受け入れるような環境整っていた。

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