プルマン・スリーピング・カーの設立
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「ジョージ・プルマン」の記事における「プルマン・スリーピング・カーの設立」の解説
1859年から1863年まで、プルマンはコロラド州ゴールデン (Golden) の近くで金の仲買人として働き、そこで資金を作るとともに、将来の事業仲間となるハンニバル・キンボール (Hannibal Kimball) に出会った。 その後プルマンは、鉄道の寝台車を製造した。これはプルマン・カーとか、あるいはパレス・カー(palace car、宮殿のような車)と呼ばれた。これは、彼がアルビオンで過ごした若い時期にエリー運河で運航されていた定期船に着想を得て設計されていた。最初の車両は1864年に完成した。プルマンの寝台車で、暗殺されたエイブラハム・リンカーン大統領の遺体をワシントンD.C.からイリノイ州スプリングフィールドまで運ぶように手配したことから、プルマンは全国的な関心を集め、車両の注文が殺到することになった。寝台車は一般の客車に比べて5倍も製造費が高かったにも関わらず、成功を収めた。寝台車は、中流階級の贅沢として売り込まれた。 1867年には、彼の最初の「走るホテル」である、台所と食堂を備えた寝台車「プレジデント号」(President) を導入した。食事はその当時の最高のレストランに匹敵するもので、サービスには非の打ち所がなかった。翌1868年には、世界で最初の素晴らしい料理専用の寝台車である「デルモニコ号」(Delmonico) を送り出した。デルモニコ号のメニューは、ニューヨークの有名なレストランであるデルモニコ (Delmonico's) から来たシェフが準備したものであった。プレジデント号、デルモニコ号およびその後のプルマンの寝台車では一流のサービスが提供されており、それは解放されてから間もない、かつて奴隷だった人が、ポーター、ウェイター、メイド、芸人、ボーイなど様々な役割を1人で果たして提供しているものであった。 プルマンは、もし彼の寝台車事業が成功したならば、乗車券を販売・集札し、電報を配達し、サンドウィッチを販売し、破れたズボンを補修し、日中の座席車を寝台車に切り替えるといった様々なサービスを旅行者に対して提供する必要があると考えていた。またプルマンは、南部のプランテーションで働いていたかつての奴隷が、彼の宮殿のような車に金を払ってくれるビジネスマンに仕えるための訓練と従順さを兼ね備えていると考えていた。プルマンの会社は、南北戦争後のアメリカにおいて単独の会社でもっとも多くのアフリカ系アメリカ人を雇用する会社となった。 1869年にプルマンはデトロイト・カー・アンド・マニュファクチャリング (Detroit Car and Manufacturing Company) を買収した。1870年には特許と、東部における競合事業者であったセントラル・トランスポーテーション (Central Transportation Company) を買収した。1871年春には、ジョージ・プルマン、アンドリュー・カーネギーとその他の人々は、財務上の苦境に陥っていたユニオン・パシフィック鉄道を救済し、その取締役となった。1875年の時点で、プルマンの会社は10万ドルの価値がある特許、営業中の700両の寝台車を所有し、また銀行に数十万ドルの預金があった。 1887年、彼はヴェスティビュール(客車の前後にある乗降用デッキまたは個室)つきの列車を設計し、実現した。これは列車全体を1両の車両であるかのようにつないでしまうデッキの空間であり、ペンシルバニア鉄道の幹線で最初に使用が開始された。
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