ブクとテマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:37 UTC 版)
吉田の火祭は浅間神社側にとっても氏子側にとっても、最上級に神聖な祭りである。一切の不浄を排除しなければならず、とりわけ人間の死にかかわるブク(忌服)と呼ばれるものは徹底的に忌避されている。上吉田の住人は前年の祭りから1年間の間に身内に不幸のあった者を「ブクがかかる」と表現し、ブクのかかった者は祭礼の期間中、上吉田地区以外へ出ることになっており、これを「テマ(手間)に出る」と言う。身内、正確には血縁者に不幸があった者は不浄であり、世話人やセコを務めることはもちろん、祭事の一切に関わることはできない。そればかりか、火祭の火を見ることすら許されないという厳しいものである。火祭のテマのしきたりが、いつ頃からあったものなかはっきりしない。だが『甲斐国志』の諏訪明神の項に現在のテマのしきたりとほぼ同じ内容の記載があることから、今日の禁忌がすでに近世後期には成立していたことが確認されている。 ブクのかかった家をアラブク(新服)と言い、家人は泊りがけでテマに出かける。この際、近所の家からアラブクの家に対して、うどん粉やそば粉などをタマブチと呼ばれる漆器の桶に入れて贈られる。これをテマ見舞い、贈られる粉をテマ粉と言う。またテマの期間中に着用する服をテマ着と呼ぶ。火祭が終わった翌朝、テマに出た人は金鳥居の下に戻ってくるので、近所の人々がテマを迎えたという。また、上吉田から逃げずに玄関を閉ざし家に閉じこもって火祭をやり過ごし、その旨の張り紙をして祭りの2日間は一種の謹慎生活を送る場合もある。これを俗にクイコミ(食い込み)と言う。これらのしきたりは2012年現在も厳格に守られている。ブクのかかった者が、それを隠してセコ(神輿の担ぎ手)となり、神輿を担いだなら必ず事故に遭い大怪我をすると言われており、実際にそのようなことが何度か起きているという。 なお、御師家においてもブクによる祭り参加の禁忌はもちろん固く守られている。だが御師の場合、火祭の当日には多くの講社を受け入れなければならず、宿坊を閉めるわけにもいかない。そこで、御師本人にブクがかかった場合、当人のみが部屋の奥の納戸などに閉じこもり、宿泊中の講員らと顔を合わせないようにしている。講社の世話や食事作りなどは、御師本人の配偶者や親類などの姻族にまかせる。ブクは個人にかかるものなので、血のつながりのない妻にはブクはかからないのである。
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