国指定文化財等データベース |
吉田の火祭
| 名称: | 吉田の火祭 |
| ふりがな: | よしだのひまつり |
| 種別1: | 風俗習慣 |
| 保護団体名: | 北口本宮冨士浅間神社 |
| 選択年月日: | 2000.12.25(平成12.12.25) |
| 都道府県(列記): | 山梨県 |
| 市区町村(列記): | 富士吉田市上吉田 |
| 代表都道府県: | 山梨県 |
| 備考: | |
| 解説文: | 吉田の火祭は、富士北麓に位置する山梨県富士吉田市上吉田の北口本宮冨士浅間神社とその摂社である諏訪神社の祭りで、毎年八月二十六・二十七日に行われる。七月一日の富士山のお山開きに対し、夏山登拝の終わりを告げるお山仕舞いの祭りでもあり、関東一円を中心に広く分布する富士講の人たちなどは、火祭までに登拝を済ませておくものといわれている。祭りのなかで数多くの大松明を燃やすことから、火祭と呼び慣わされているが、正式には鎮火祭と呼ばれ、二十六日が宵宮、二十七日が本祭である。 この祭りは、『甲斐國志』に「諏訪明神上吉田村例祭七月二十一日(中略)其夜此屋皆篝【かがり】松を焼く」とあるように、本来は上吉田の氏神であった諏訪神社の大祭であったが、富士信仰の隆盛とともに浅間神社の社域が拡大して諏訪神社を取り込み、浅間神社が村氏神、諏訪神社はその境内社となり、現在は両社の祭りとして伝承されているものである。祭日は近世以来、幾度かの変遷を経ており、『富士浅間神社社誌』によれば、大正三年以後現在の期日となる。火祭の由来については、浅間神社の祭神である木花開耶姫【このはなさくやひめ】命が産屋に火を放ち、猛火の中で無事に出産をしたという神話に因むなど諸説が伝えられている。 祭りの準備や運営は、上吉田の上宿・中宿・下宿・中曽根の四地区からそれぞれ選ばれた世話人と呼ばれる一四名の祭典世話係が中心となって行う。世話人になれるのは、四二歳の厄年前の男性に限られている。二十六日には、諏訪神社の神輿とオヤマサンあるいは富士御影【おかげ】と呼ばれ、重量約一・五トンもある浅間神社の富士山型の神輿が中宿の御旅所まで氏子域を巡行する。巡行の際には、オヤマサンは諏訪神社の神輿を決して追い越してはならないとされている。二つの神輿が御旅所に収められると、上吉田の御師街の通りに大松明が立てられ、世話人によって次々と点火される。大松明は結【ゆい】松明とも呼ばれ、高さが約三・五~四・五メートル、直径が約六〇~九〇センチメートル程の大きさで、カラマツや赤松の薪を笹板と呼ばれる板で樽のように囲み、荒縄で縛って筒状に作ったものである。かつては、御師や富士講社によって奉納されていたが、現在は地域の民間企業などが主な奉納者である。平成十二年度は、七〇本以上の大松明が奉納されている。一方、沿道の家々では、赤松などの薪を家の入口や路上に高く積み上げて井桁積【いげたづみ】松明をつくる。路上の大松明に火が点されると、これを合図に各家の井桁積松明にも次々と火がつけられ、また富士山の五合目から上の山小屋でも篝火が焚かれ、山と町とが一体となっての火祭となる。人びとは火の粉をあびながら大松明の下を通り抜け、富士講の人たちは師檀関係にある御師の宿坊の前で、先達を中心に燃えさかる松明を取り囲んでオガミをあげるなど講の行事を行う。 火祭のときには、その年に不幸のあった家は不浄とされ、決して祭りの火を見てはならず、「テマ(手間)に出る」といって町外の親戚の家などに逃れたり、クイコミといって家の戸を閉め切って謹慎する。近隣の家々は、その家に「テマ見舞い」としてうどん粉やそば粉を贈り、翌朝には「テマ迎え」といって町内に帰ってくる者を下宿の金鳥居まで迎えに行く。翌二十七日は、御旅所から二つの神輿が神社へ還御し、祭りは終了となる。 吉田の火祭は、上吉田の氏神であった諏訪神社の大祭が富士信仰の隆盛とともに浅間神社の祭りともなったもので、上吉田四地区の氏子を中心としながらも、各地の富士講の人たちも参加する富士信仰に基づく祭りである。また、火に関する禁忌が厳格に守られているなど、わが国の民間信仰や祭りのあり方を理解する上で貴重であるが、富士信仰の衰退や観光化の影響等によって大きな変貌が危惧されるものである。 |
風俗習慣のほかの用語一覧
| 祭礼(信仰): | 博多山笠行事 古川祭 古座の御舟祭 吉田の火祭 名喜里祇園祭の夜見世 周防・長門の辻堂の習俗 国東のとうや行事 |
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