ビザンツ皇帝理念
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ビザンツ皇帝はローマ皇帝に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である。「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった。ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、皇帝に奉仕するものとなった。古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。それは古代ローマとは反対の制度だった。 ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。「「軍人皇帝時代」もちろん、330年のコンスタンティノープル遷都以降も、皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」。一方同じ5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が行われるようになり、「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」。就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀のレオ1世であると考えられている。そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。 6世紀のユスティニアヌス1世は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、「自らの地位を諸法に超越するものとし」、「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、自発的に諸法に従うことになった」。。ユスティニアヌス1世は自らを「主人」と呼ばせ、元老院議員へも跪拝(プロスキュネーシス(英語版))を要求した。かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺したニカの乱の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している。ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた。古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、その母斑をついに消し去ったのである。血塗られた彼の帝衣は、まさに古代ローマ皇帝の死装束であった。 7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。古代ローマや中世西欧では、ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、軍司令官としての性質が強調された。一方の東ローマ帝国では、7世紀の皇帝ヘラクレイオスを最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった。ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる。
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