ビザンティン帝国、ブルガリア帝国時代
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「ポモリエ」の記事における「ビザンティン帝国、ブルガリア帝国時代」の解説
681年以降、第一次ブルガリア帝国の形成の過程において、アンヒアロスは2つの帝国の衝突の中で重要な役割を果たした。708年にビザンティンの皇帝ユスティニアノス2世の軍は、この近辺でブルガリア帝国のハーン、テルヴェル(Тервел、Tervel)によって完敗させられた。763年6月30日、テレツ(Телец、Telets)率いるブルガール人の軍はコンスタンティノス5世によって敗北を喫した。766年6月21日には、同じくコンスタンティノス5世の2600隻の大型船が皇帝の待つアンヒアロスに向かう途上で沈没、皇帝はアンヒアロスからコンスタンティノープルへの撤退を余儀なくされた。 783年、エイレーネーはトラキア征伐を指揮し、アンヒアロスの破壊された城壁を修復した。町は812年にブルガリア帝国のハーン、クルム(Крум、Krum)によって征服され、ブルガール人とスラヴ人が入植した。ビザンティンは864年にアンヒアロスの支配を回復した。 アンヒアロスの戦い(en)はこの町の近くで917年8月20日に発生し、ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世の最大の戦果のひとつとなった。シメオンの軍は、より規模の大きかったビザンティンの将軍レオ・フォカス(Leo Phocas)率いる軍を敗走させた。ビザンティン帝国によってブルガリア帝国が再征服されたのに伴って町が再びビザンティン支配下となる971年までの間、ブルガリア帝国が町を支配した。第二次ブルガリア帝国としてブルガリアが再興すると、町がヴェネツィアの騎士アマデウス6世(en)によって征服される1366年までの間、幾度にもわたってビザンティンとブルガリアに交互に支配された。
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