ビザンティン・スラヴの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:50 UTC 版)
「ストルミツァ」の記事における「ビザンティン・スラヴの時代」の解説
スラヴ人の移動により町は660年頃から730年頃にかけ、大きな破壊を受けた。スラヴ人部族のストルミツァニが定住しストリモン川に因み、ストルマと名付けている。短い期間、ストルミアニ(Strumjani)と言う独立したスラヴ人の公国がビザンティンに征服されるまで存在した。845年から855年にかけ、ビザンティンの軍隊はブレガルニツァ=ストルミツァ地域を支配していた。後にストルミツァ地域はブルガリアの君主ボリス(852-889)により支配される。ストルミツァは969年までブルガリアとして残り、その最初の反乱が起こるとツザール・サムイルの国の一部となる。1014年7月19日にベラシツァの戦いが起こり、tzar Samuel(976-1014)率いるマケドニアの軍隊がビザンティンのバシレイオス2世(976-1025)により打ち負かされた。1018年にビザンティンはマケドニアを手に入れる。11世紀の典拠により、最初にストルミツァと書かれている。12世紀にビザンティン中央の力が弱まると多くの封建領主が独立していった。ストルミツァ地域ではDobromir Hris (1185-1202)や後にDobromir Strez (1208-1214)などがいた。しかし、ビザンティンはついには独立した封建領主の存在に終止符を打つ。13世紀にはマケドニアはセルビアからの攻撃を受けるようになり1334年までの一定の期間Hreljaがストルミツァや近隣の地域を支配していた。その後、セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンにより町は引き継がれている。ネマニッチ朝が1371年に絶えると、マリツァ川の戦いによってデヤノヴィッチ兄弟によりストルミツァ周辺地域は支配された。この支配はバルカン半島へのトルコの侵入により短期間で終わり、1382-1383年にはストルミツァ周辺はトルコにより征服される。これにより、この地域の中世の時代は終わりを告げた。
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