ディープスロート
ディープ‐スロート【deep throat】
読み方:でぃーぷすろーと
ディープ・スロート
ディープスロート
ディープ・スロート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 04:03 UTC 版)
ディープ・スロート (Deep Throat)
- 1 ディープ・スロートとは
- 2 ディープ・スロートの概要
ディープ・スロート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 10:09 UTC 版)
「ウォーターゲート事件」の記事における「ディープ・スロート」の解説
事件発生から33年後の2005年5月31日、当時FBI副長官であったマーク・フェルトが「ディープ・スロート」であったことを公表し、『ワシントン・ポスト』及びウッドワードもこれを認めた。 ウッドワードとフェルトとが初めて会ったのは、1969年秋ごろにホワイトハウス西館1階にある国家安全保障会議の幹部執務室の外にある狭い応接ルームであった。イェール大学を卒業後軍役に就き、当時海軍大尉であったウッドワードは国防総省に勤務し各通信文や書類をホワイトハウスに届ける役目を務めていた。担当者に手渡すまで待っている間(1時間ほど待たされることが多かった)に、たまたま隣に座って言葉を交わしたのが当時FBI副長官のフェルトであった。ホワイトハウスで会ったのはこの後にもう1度だけで、やがて翌1970年夏に海軍を除隊後に『ワシントン・ポスト』に2週間試用で勤務したが結局本採用されず、地方都市の週刊誌記者として1年間勤めている間にフェルトと親しい関係になり、自宅を訪ねたこともあった。 ウッドワードは1971年9月に『ワシントン・ポスト』に本採用され、新聞記者となったが、仕事に忙殺される間でも定期的に連絡は取っていた。その頃には政府機関であるFBI副長官と新聞記者との関係を誰にも知られないようにして、自分とFBIと司法省に一切言及しない鉄則を守ることを誓い、どんなことがあっても秘密を厳守することをウッドワードはフェルトから教えられた。 どちらかが緊急に会う必要が生じた時は2人だけが分かる意思表示の方法も決められていて、ウッドワードが会いたいと意思表示する時は自宅アパートのベランダに置いてある植木鉢を奥に引っ込めることで、これをどうやってフェルトが確認したのかウッドワードはついに分からないままであった。フェルトが意思表示をする時はウッドワード宅に配達される『ニューヨーク・タイムズ』の20ページ目のページ番号20に〇を書き入れ、その下に矢印をつけてその矢印の方向で何時にと分かるようにしていて、大体午前2時が多かった。場所はポトマック川のヴァージニア州ロスリンにある地下駐車場であった。 ウォーターゲート事件が起こる前でも、2人は取材の中でワシントン・政府・権力といったテーマで何度も夜遅くに語り合う関係であった。彼は「ニクソンが支配するホワイトハウス」に悩まされていた。ニクソンの取り巻きによる政権維持のためには汚いやり方を意に介さないことに憤慨していた。侵入事件直後の1972年6月23日以降のハルデマン補佐官とディーン顧問の動きで見せた態度は、政府機関の側からは横柄で礼を失したものであった。議会から承認を受ける必要のない補佐官が政府機関のトップを呼びつけて注文を付ける様子はフェルトの神経を逆撫でするものであった。そしてウッドワードはホワイトハウス上層部との関係に注目したが決定的な証拠はまだ見出せず、1972年10月のある日の深夜にこの事件が起きて以降では初めてフェルトに会った。彼は「大統領とミッチェルだけが知っている」との謎めいた言葉をウッドワードにかけていた。「ミッチェルは関与している。疑いの余地はない」「いろいろな妨害工作や違法活動にホワイトハウスとニクソン再選委員会のメンバーが50人くらい関わっている」と言いながら最後に「今言ったことは一言たりとも記事にしてはならない。これはバックグラウンドだ」と言っている。しかしこの直後に、ホワイトハウスの大統領執務室でハルデマン補佐官がニクソン大統領に『ワシントン・ポスト』への情報提供者はフェルトだと報告していた。 ウッドワードとフェルトの関係は、ウッドワードが『大統領の陰謀』を書いたりして、大統領辞任後にディープ・スロートの正体についての取材が多くなり、フェルトも質問を受けて自分ではないと否定することで、次第に疎遠になっていった。またフェルト自身は1973年5月にグレイ長官代行の辞任後に後継に選ばれることなく翌月に辞任したが、1972年に極左テロ組織「ウエザーマン」の捜査の過程で、FBIが容疑者宅への不法侵入を承認したことが4年後に問題となって裁判の被告席に立つこととなり、この裁判で1980年10月に証人として当時67歳のニクソンが出廷してフェルトを擁護している。長い裁判の結果、1980年11月に大陪審で有罪の判決を受けて、服役せず罰金刑という軽い処分に終わった。しかも翌年就任したレーガン大統領が「テロリズムを終息させるという崇高な行動指針に従った行動」と讃え、特赦を受けた。それに対してウッドワードはジャーナリストという身分からまったく逆の立場に立つことになった。 2000年2月、86歳になったフェルトをウッドワードは訪ねている。この時にすでに認知症を患っていたフェルトは細かい記憶が失われており、幾つかの昔話に「憶えていない」の返事が多かった。ウッドワードとバーンスタインは彼が死んだ後にすべてを明らかにしようと考えていたが、2005年5月31日に発行された雑誌「ヴァニティ・フェア」において、「私がディープ・スロートと呼ばれた男」の記事が出された。この記事は弁護士ジョン・オコーナーとフェルトの娘のジョーンが本人を説得してオコーナーが書き、この中でフェルトがディープ・スロートであったことと自身が認知症によりその事の記憶を既に失くしていることにも触れていた。同じ日に『ワシントン・ポスト』社内でウッドワード、バーンスタインと他の編集局幹部が協議の上で、声明を出して「フェルトはディープ・スロートであり、ウォーターゲート事件の取材の際に計り知れないほどに力になってくれた」と彼がその人であったことを認めた。 なおフェルトの動きを「FBIがマスメディアを利用してニクソン大統領を辞任に追い込んだクーデターである」などと主張する者がいるが、そもそも事件を起こしたのはニクソンのホワイトハウスであり、「そもそも大統領が事件を知ってからすぐにもみ消し工作を指示したことが彼の崩壊の出発点であった」「事件の進展の過程でニクソンが真相を全て公表してしまえば、自己の政治生命を救うことができた時期もあった」とされている。しかしもみ消し工作をさらにもみ消すことを繰り返して、さらに司法活動の妨害まで行って、そのたびに国民の大統領に対する疑惑と不信感を深めて「つまり最終的に破滅に追いやったのは、真相を隠そうとして次々と取った彼の対応策であり、彼は自ら墓穴を掘るような行動を重ねていった」ことであった。 さらにマーク・フェルトはフーヴァーの死去後の後任にグレイが任命されたことにショックを受けていた。自分が後継者になると自負していたとボブ・ウッドワードはその著「ディープスロート〜大統領を葬った男〜」で書いているが、またフェルトの行動についてゲーム感覚でウッドワードを手先の諜報員と見なしていたのではないか、と疑い「彼のような地位の人間がニクソン及び大統領制そのものに影響を及ぼすような事柄で不謹慎なことをするとは思えなかった」として結論として「ディープスロートは政権を護ろうとした。全てが崩壊する前に政権みずからが行いを改めることを意図していた」と書いている。1972年10月にフェルトとウッドワードが事件後に初めて《密会》した直後にすぐにニクソンのもとに情報が入っていたこと、辞任後の1980年にフェルトが在職中(1970年)に起こった別の事件(FBI不法侵入事件)で被告となった時にニクソンが弁護側の証人として出廷してフェルトを弁護し、後に赦免されたフェルトは「ニクソンがワシントン・ポストよりもずっと力になってくれた」と語っていたことを見れば、ウォーターゲート事件は「クーデター」ではなく「国家権力者による数えきれない程の違法行為が導いた政権の自滅」以外の何物でもない事は火を見るよりも明らかである。
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