ちょう‐しゅう〔チヤウシウ〕【張州】
ちょう‐しゅう〔‐シウ〕【徴収】
読み方:ちょうしゅう
[名](スル)
ちょう‐しゅう〔‐シフ〕【徴集】
ちょう‐しゅう〔テウシフ〕【朝集】
ちょうしゅう〔テウシウ〕【潮州】
ちょう‐しゅう〔チヤウ‐〕【町衆】
ちょう‐しゅう〔チヤウ‐〕【聴衆】
ちょう‐しゅう〔テウシフ〕【調習】
ちょう‐しゅう〔チヤウシウ〕【長周】
ちょう‐しゅう〔チヤウシウ〕【長州】
ちょう‐しゅう〔チヤウシウ〕【長袖】
張脩
チョウシュウ | ||
巴郡巫の人、巫術師《後漢書霊帝紀》。「張修」とも書かれる《張魯伝・後漢書霊帝紀》。裴松之が張衡とすべきというのは誤りだろう《張魯伝集解》。 光和年間(一七八~一八四)、漢中で「五斗米道」を広めた人物である。それは病人を静かな部屋で過ちを反省させる、姦令祭酒なる役職を置いて『老子』を教えさせ、鬼吏なる役職を置いて病気治癒を祈祷させる、その方法は、病人の姓名と謝罪文をしたためた「三官手書」と名付ける三通の手紙を、一つは山上に置いて天に捧げ、一つは地中に埋め、一つは川に沈める、病人を出した家には五斗の米を納めさせるというものであった《張魯伝》。 中平元年(一八四)七月、黄巾賊の張角に呼応するように挙兵し、近隣の郡県を陥落させたが《後漢書霊帝紀》、張角が誅伐されると、張脩もやはり没落した《張魯伝》。 五年六月、益州牧劉焉が督義司馬張魯を派遣して漢中を攻略させたとき、張脩も別部司馬として従軍している《張魯伝》。漢中太守蘇固は城郭を乗り越えて脱出したが、張脩は彼を追跡して殺害した。その主簿であった趙嵩が剣を片手に張脩本営に飛び込み、十数人を殺して張脩を捕まえようとしたが、戦死した。また門下掾の陳調が食客百人余りを集めて攻撃をかけ、張脩軍が崩れたところ、さらに突き進んで本営を攻撃したが、負傷して死んだ《華陽国志》。 【参照】蘇固 / 張角 / 張衡 / 張魯 / 趙嵩 / 陳調 / 裴松之 / 劉焉 / 益州 / 漢中郡 / 巴東郡(巴郡) / 巫県 / 姦令祭酒 / 鬼吏 / 主簿従事 / 太守 / 督義司馬 / 別部司馬 / 牧 / 門下掾 / 老子 / 黄巾賊 / 五斗米道 / 三官手書 / 妖巫(巫術師) |
肇秋
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