スペイン滞在とは? わかりやすく解説

スペイン滞在

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)

カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「スペイン滞在」の解説

1764年2月ボーマルシェとその一家にとって大問題が発生したスペイン居住する次姉が「結婚約束を同じ男に2度破談にされ、ひどい侮辱苦しみ泣きはらしている」との知らせ舞い込んできたのであるボーマルシェはこの一件を、後年になって1764年スペイン旅行記断章』として記しているが、事実即して書かれておらず、多分にフィクション含んでいる。 次姉マリー=ルイーズは、長姉マリージョセフ1748年石大工棟梁ルイ・ギルベールと結婚してスペインマドリード移住した際に、彼らにくっついていった。彼女は同地で、軍需省努めていたクラビーホという男と親しくなって結婚約束までしたが、姉であるマリー=ルイーズ慎重になるように忠告されたため、結婚引き延ばしていたのであった。クラビーホは才能ある男で、スペイン陸軍に関する著作発表するなどして頭角現し文芸誌創刊したり、スペイン王室古文書管理官任命されるなど、順調に出世していった。結婚約束から6年経ったある日、妹を任せるのに問題なし判断したマリージョセフは、彼に結婚約束履行するように迫ったが、クラビーホはなかなか首を縦に振らなかった。出会いからあまりに時間経ちすぎていたしマリー=ルイーズ33歳になっており、決して若いとは言えなかった。その美しさ陰り見えていたし、出世果たしたクラビーホはその辺の女など相手にしなくとも、もっと有利な結婚相手を見つけることができたのである何より、クラビーホは優柔不断なであったマリージョセフ求めに応じて素直に従っているようなふりをして結婚準備進めておきながら、いざ結婚式当日失踪したのであるフランス大使訴えられたらどうなるかわからないとの思いからか、自身行為情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を現し姉妹謝罪し結婚履行承諾したが、再び式の3日前に失踪したであった。 『1764年スペイン旅行記断章』では、「悲嘆暮れ世間から後ろ指指され泣きはらしている次姉マリー=ルイーズの名誉回復のために、知らせ受けてすぐに馬に乗ってスペイン駆け付けた」ことになっているが、これは事実ではない。マリー=ルイーズはクラビーホのほかに、フランス商人デュランという男をすでに婚約者として見つけていたしボーマルシェもその父親も、彼らの間柄手紙祝福している。さらに、ボーマルシェパリを発つ許可国王からもらったのは、4月7日のことだった。出発それよりさらに後のことだろうから、この事実からも急いで駆けつけようとしていないことは明らかである。この出発許可獲得するために提出した手紙では、スペインへ行く目的として家庭の事情挙げている。確かにそれも目的一つには違いないのだが、それはあくまで名目で、本当目的はフランスースペイン間の重要な通商問題簡潔に言えば新大陸植民地利権寄越せ、というもの)を解決することにあった。同じ手紙で、スペイン駐在フランス大使への推薦状依頼しているのはそのためである。こうしてフランス発ったボーマルシェが、マドリード到着したのは5月18日のことであった急げば2週間足らず到着する距離だが、途中でボルドーバイヨンヌなどの都市立ち寄っているところを見るに、自身託され重要な使命について思案巡らせていたのかもしれない彼に託されたフランスースペイン間の通商問題とは、七年戦争の手痛い敗戦起因するのである1763年2月10日締結されパリ条約によって戦争終結したが、敗戦国フランス大量領土失い同じく領土失った同盟国スペインに西ルイジアナ地方割譲したであった政治的に経済的にも、とにかく大打撃被ったフランスは、一刻も早く立ち直ろうと、フランス経済界重鎮であったパーリ=デュヴェルネーを中心に据えて計画立てスペイン王に対していくつかの提案行ったのだった。その使者として選ばれたのが、ボーマルシェである。 まず、あくまで名目しかない次姉結婚問題についてマドリードどのように活動したか。『断章によればマドリード到着したボーマルシェは、姉や友人たちに囲まれ次姉再会し、事の顛末仔細に亘って聞き出し、名前を明かさずにクラビーホと会う約束取り付け証人連れ添って文芸誌編集長たるクラビーホの事務所乗り込んだという。旅の目的問われボーマルシェは、例え話装って2人の娘をマドリード居住させるフランス人商人の話をし始め彼女たちの結婚について問題起こったためにやってきたのだと告げた確信持てないままに、しかし妙に目の前で語られる話が自分体験している事情似ていることにクラビーホは首をひねりつつ聞いてたようだが、ボーマルシェ種明かしによってとどめを刺され、しばらく茫然自失の状態であったという。さらなる追及受けて逃れられなくなったクラビーホは、マリー=ルイーズ向けて謝罪文書を認めた。さらに踏み込んで徹底的に破滅追い込むこともできたが、フランス大使から穏便に済ませるように忠告されていたし、クラビーホはスペイン王室強力な後ろ盾持っており、本来の目的である通商問題解決使える踏んだのか、3度目約束となる婚約書を作成させるにとどめたであった。 ところが、相変わらずクラビーホは優柔不断卑劣なであった。どう考えて割に合わない話だと思い直したのか、あちこち逃げ回った挙句ピストル脅され結婚強制された」とスペイン宰相訴え出たのである窮地陥ったボーマルシェであったが、訴えから逃げ出すことなく、自ら宰相のもとへ赴いて自身潔白主張し、クラビーホの公職追放(1年間解除されたが)という逆転勝利収めたという。この件に関して伝わっている話はここまでで、結局その後マリー=ルイーズはどうなったのか正確にわからない。どうやらクラビーホともデュランとも結婚せず独身のまま過ごしたらしい。 本来の目的である通商問題に関してはどうだったか。まずボーマルシェは、問題解決のために有力な貴族探し始めた手始めスペイン社交界有力者であったフエンクララ侯爵夫人近づき、彼女のサロン出入りするうちに、スペイン将軍結婚したフランス人ラクロワ夫人出会ったボーマルシェ見て望郷の念に駆られたか、それとも彼の魅力取りつかれたのか、理由定かではないが、夫人は彼を連れ歩くようになり、スペイン社交界での彼の売り込み大い協力してくれたのであったおかげで、在スペインイギリス大使スペイン宰相知遇を得ることに成功した。ところが、結果的にラクロワ夫人存在が邪魔となった通商問題解決のためにもうひと押し必要と考えたボーマルシェは、ラクロワ夫人けしかけて、彼女に国王カルロス3世愛人となるよう依頼した夫人見事にそれを果たしたのだが、国王愛人となった夫人は、自分立場危うくするようなことはしたがらなくなった夫人通じて国王から譲歩引き出そうとしたボーマルシェ試みはこうして失敗終わりそのまま状況変えられることなく帰国の日を迎えたであったスペイン宰相グリマルディは、ボーマルシェ持たせた手紙の中で彼への好意率直に示しているが、とにかく使命遂行には失敗した

※この「スペイン滞在」の解説は、「カロン・ド・ボーマルシェ」の解説の一部です。
「スペイン滞在」を含む「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事については、「カロン・ド・ボーマルシェ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「スペイン滞在」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スペイン滞在」の関連用語

スペイン滞在のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スペイン滞在のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカロン・ド・ボーマルシェ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS