スペイン滞在
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「スペイン滞在」の解説
1764年2月、ボーマルシェとその一家にとって大問題が発生した。スペインに居住する次姉が「結婚の約束を同じ男に2度も破談にされ、ひどい侮辱に苦しみ、泣きはらしている」との知らせが舞い込んできたのである。ボーマルシェはこの一件を、後年になって『1764年、スペイン旅行記断章』として記しているが、事実に即して書かれておらず、多分にフィクションを含んでいる。 次姉マリー=ルイーズは、長姉マリー=ジョセフが1748年に石大工の棟梁ルイ・ギルベールと結婚してスペインのマドリードに移住した際に、彼らにくっついていった。彼女は同地で、軍需省に努めていたクラビーホという男と親しくなって結婚の約束までしたが、姉であるマリー=ルイーズに慎重になるように忠告されたため、結婚を引き延ばしていたのであった。クラビーホは才能のある男で、スペイン陸軍に関する著作を発表するなどして頭角を現し、文芸誌を創刊したり、スペイン王室古文書管理官に任命されるなど、順調に出世していった。結婚の約束から6年が経ったある日、妹を任せるのに問題なしと判断したマリー=ジョセフは、彼に結婚の約束を履行するように迫ったが、クラビーホはなかなか首を縦に振らなかった。出会いからあまりに時間が経ちすぎていたし、マリー=ルイーズも33歳になっており、決して若いとは言えなかった。その美しさに陰りが見えていたし、出世を果たしたクラビーホはその辺の女など相手にしなくとも、もっと有利な結婚相手を見つけることができたのである。何より、クラビーホは優柔不断な男であった。マリー=ジョセフの求めに応じて、素直に従っているようなふりをして結婚の準備を進めておきながら、いざ結婚式当日に失踪したのである。フランス大使に訴えられたらどうなるかわからないとの思いからか、自身の行為が情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を現して姉妹に謝罪し、結婚の履行を承諾したが、再び式の3日前に失踪したのであった。 『1764年、スペイン旅行記断章』では、「悲嘆に暮れ、世間から後ろ指を指されて泣きはらしている次姉マリー=ルイーズの名誉回復のために、知らせを受けてすぐに馬に乗ってスペインに駆け付けた」ことになっているが、これは事実ではない。マリー=ルイーズはクラビーホのほかに、フランス商人のデュランという男をすでに婚約者として見つけていたし、ボーマルシェもその父親も、彼らの間柄を手紙で祝福している。さらに、ボーマルシェがパリを発つ許可を国王からもらったのは、4月7日のことだった。出発はそれよりさらに後のことだろうから、この事実からも急いで駆けつけようとしていないことは明らかである。この出発許可を獲得するために提出した手紙では、スペインへ行く目的として家庭の事情を挙げている。確かにそれも目的の一つには違いないのだが、それはあくまで名目で、本当の目的はフランスースペイン間の重要な通商問題(簡潔に言えば、新大陸の植民地の利権を寄越せ、というもの)を解決することにあった。同じ手紙で、スペイン駐在フランス大使への推薦状を依頼しているのはそのためである。こうしてフランスを発ったボーマルシェが、マドリードに到着したのは5月18日のことであった。急げば2週間足らずで到着する距離だが、途中でボルドーやバイヨンヌなどの都市に立ち寄っているところを見るに、自身に託された重要な使命について思案を巡らせていたのかもしれない。 彼に託されたフランスースペイン間の通商問題とは、七年戦争の手痛い敗戦に起因するものである。1763年2月10日に締結されたパリ条約によって戦争は終結したが、敗戦国フランスは大量の領土を失い、同じく領土を失った同盟国スペインに西ルイジアナ地方を割譲したのであった。政治的にも経済的にも、とにかく大打撃を被ったフランスは、一刻も早く立ち直ろうと、フランス経済界の重鎮であったパーリ=デュヴェルネーを中心に据えて計画を立て、スペイン王家に対していくつかの提案を行ったのだった。その使者として選ばれたのが、ボーマルシェである。 まず、あくまで名目でしかない次姉の結婚問題についてマドリードでどのように活動したか。『断章』によれば、マドリードに到着したボーマルシェは、姉や友人たちに囲まれて次姉と再会し、事の顛末を仔細に亘って聞き出し、名前を明かさずにクラビーホと会う約束を取り付け、証人を連れ添って文芸誌の編集長たるクラビーホの事務所へ乗り込んだという。旅の目的を問われたボーマルシェは、例え話を装って、2人の娘をマドリードに居住させるフランス人商人の話をし始め、彼女たちの結婚について問題が起こったためにやってきたのだと告げた。確信が持てないままに、しかし妙に目の前で語られる話が自分の体験している事情と似ていることにクラビーホは首をひねりつつ聞いていたようだが、ボーマルシェの種明かしによってとどめを刺され、しばらく茫然自失の状態であったという。さらなる追及を受けて、逃れられなくなったクラビーホは、マリー=ルイーズへ向けて謝罪文書を認めた。さらに踏み込んで徹底的に破滅へ追い込むこともできたが、フランス大使から穏便に済ませるように忠告されていたし、クラビーホはスペイン王室に強力な後ろ盾を持っており、本来の目的である通商問題の解決に使えると踏んだのか、3度目の約束となる婚約書を作成させるにとどめたのであった。 ところが、相変わらずクラビーホは優柔不断で卑劣な男であった。どう考えても割に合わない話だと思い直したのか、あちこちを逃げ回った挙句「ピストルで脅されて結婚を強制された」とスペインの宰相に訴え出たのである。窮地に陥ったボーマルシェであったが、訴えから逃げ出すことなく、自ら宰相のもとへ赴いて自身の潔白を主張し、クラビーホの公職追放(1年間で解除されたが)という逆転勝利を収めたという。この件に関して伝わっている話はここまでで、結局その後マリー=ルイーズはどうなったのか正確にはわからない。どうやらクラビーホともデュランとも結婚せず、独身のまま過ごしたらしい。 本来の目的である通商問題に関してはどうだったか。まずボーマルシェは、問題解決のために有力な貴族を探し始めた。手始めにスペイン社交界の有力者であったフエン=クララ侯爵夫人に近づき、彼女のサロンに出入りするうちに、スペインの将軍と結婚したフランス人、ラクロワ夫人と出会った。ボーマルシェを見て望郷の念に駆られたか、それとも彼の魅力に取りつかれたのか、理由は定かではないが、夫人は彼を連れ歩くようになり、スペイン社交界での彼の売り込みに大いに協力してくれたのであった。おかげで、在スペインのイギリス大使やスペイン宰相の知遇を得ることに成功した。ところが、結果的にラクロワ夫人の存在が邪魔となった。通商問題の解決のためにもうひと押し必要と考えたボーマルシェは、ラクロワ夫人をけしかけて、彼女に国王カルロス3世の愛人となるよう依頼した。夫人は見事にそれを果たしたのだが、国王の愛人となった夫人は、自分の立場を危うくするようなことはしたがらなくなった。夫人を通じて国王から譲歩を引き出そうとしたボーマルシェの試みはこうして失敗に終わり、そのまま状況を変えられることなく、帰国の日を迎えたのであった。スペイン宰相グリマルディは、ボーマルシェに持たせた手紙の中で彼への好意を率直に示しているが、とにかく使命の遂行には失敗した。
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