スピシャランの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
スピシャラン スピシャラン(英語版) 詳細は「スピシャランの戦い(英語版)」を参照 モルトケは当初、ザール川のバゼーヌ元帥の軍に対して、第2軍で敵正面から、第1軍で敵左翼から攻撃するため、8月6日に両軍をザール地方で合流させる計画だった。そして、バゼーヌ軍を現在地に引き留めて、第3軍が敵後方に回り込んで退路を断つ態勢を構築する意図があった。しかしながら、老将シュタインメッツ将軍はモルトケの計画を知らず、麾下の第1軍は第2軍到着前にザールブリュッケンの前面に至った。 フランス側では、ヴィサンブールでの損害を受けて作戦の練り直しが不可欠であった。ルブーフ将軍は怒りのあまり顔を紅潮させ、ザール川を越えて攻勢に出て損害を挽回する一念であった。しかしながら、軍監察官 Wolff 将軍がザール川を越えての補給は不可能だろうと言ったため、次の対決に向けた計画は、感情やプライドよりも、ようやく見え始めた現実に立脚したものとなった。従って、フランス軍は防御態勢をとることとなり、それはドイツ側からの攻撃が予想される地点を全て守ることとなったため、フランス軍の布陣は広がり、互いに連携しにくい状態のままであった。 ザールブリュッケンにいた仏第2軍のフロサール将軍は、ドイツ軍の動静が不明な状況で、ヴィサンブールでのフランス敗北の報を知り、同地の確保は困難であると判断して放棄し、国境近くのスピシャランの高台に布陣した。仏軍の撤退を知ったシュタインメッツ将軍は、予定外に第1軍を率いてまっすぐスピシャラン(独:シュピッヒェルン)へ向けて南へ進んだ。フリードリヒ・カール王子軍の本隊と、そこから前方展開している騎兵隊との間に割り込んでしまった。 8月6日、マクマオン元帥の仏第1軍がドイツ第3軍とヴルトで戦っていたころ、シュタインメッツ将軍のドイツ第1軍はザールブリュッケンから西へ前進し終えた所であった。フリードリヒ・カール王子のドイツ第2軍から出された斥候が、付近の「おとり射撃」につられて、遠くのスピシャラン町の南の台地の上にフロサール軍(フランス第2軍)を発見し、これをフロサール軍が退却しようとしていると受け取った。ここで再びモルトケの計画は無視されて、ドイツ第1軍と第2軍は、スピシャランとフォルバックの間にて防備を固めている仏第2軍に攻撃を掛け始めた。 戦闘の当初、フランス軍はドイツ軍の数的優位に気付いていなかった。なぜなら、ドイツ第2軍はそれまで総攻撃を行っていなかったからである。フロサールは接近して来るドイツ軍の攻撃を単なる小競り合いと考えており、他の部隊へ増援を要請しなかった。どれほどの規模の相手と戦っているのかをフロサールが認識した時には、時既に遅かった。予備戦力たるバゼーヌ軍とフロサール軍の間の通信はかなり断片的かつ遅くなり、予備戦力がスピシャランへの移動命令を受け取った頃には、既にドイツ第1軍と第2軍が台地に向かって突撃を仕掛けていた。 スピシャランの仏軍陣地は、森の中にあって防御に有利であった が、予備戦力が到着しなかったため、フロサールは、フォルバックで発見されたフォン・グルーメ(von Glume)将軍の部隊が自軍の側背に回り込みつつあり、自軍は重大な危機に瀕していると誤解した。フロサールは台地の防衛を放棄して、日没後に戦闘が終了するまでに南へ退却した。 シャスポー銃の性能により、ドイツ軍の損害(死傷者)はフランス軍より大きかった ものの、翌朝に再び突撃を仕掛けたドイツ軍はそれまでの損害が無駄ではなかった事を知り驚喜した。フロサールは台地の陣地を放棄していたのである。 スピシャランの戦いは、この戦争におけるフランスの3度にわたる決定的な敗北の中でも2番目に大きな敗北となった。
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