スキーの普及活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:53 UTC 版)
道明は日本にスキーが伝わるより前にスウェーデンでスキーに関心を持ち、子供たちに交ざって練習をした。その模様を現地の新聞が、日本公使の杉村虎一がスキーをする様子として写真付きで報道してしまった。この誤報はしばらく訂正されず、スキーをする日本公使としてしばらく引用され続け、その後「公使書記官」の写真として利用された挙句、ようやく日本からの留学生・永井道明として体育雑誌に掲載された。この一件もあってか、杉村公使はスキーを大日本帝国陸軍に普及させるべく陸軍大臣の寺内正毅にスキー用具を送り、寺内は新潟県高田市(現・上越市)の第13師団にスキー研究を命じ、ちょうど来日中であったテオドール・エードラー・フォン・レルヒが1911年(明治44年)に同師団にスキー技術を指導し、これが日本のスキーの発祥となった。こうして道明はスキー技術の普及に間接的に関与したことを喜ばしく思っており、晩年にはスキーが広く普及していたことに「驚喜の外はない」と感想をしたためている。 道明がスキーを習得したのは単に興味を持っただけでなく、冬を嫌って屋外に出るのを拒む日本人に、寒い冬こそ屋外へ出てできる遊戯・スキーを普及させたいという思いがあったからである。要するに国民体育の手段としてスキーを利用しようと考えたのである。1909年(明治42年)2月27日に東京高師で開かれた「帰朝歓迎会」の席で「氷滑り」の話をしたといい、これはスケート・スキーであったとみられる。続いて1910年(明治43年)12月、井口阿くりらの要請で秋田県で体操講習会を開き、その際に手形山スキー場などでスキーを実施した。このスキー講習は当初から予定されていたものではなく、体操講習会の空き時間を利用して、参加者のうちの数人が恐る恐るスキー板を履いて雪の上を歩いてみたという程度であった。翌1911年(明治44年)1月には山形県入りし、新庄や赤湯でスキーを指導し、山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)ではスキーが教育に取り入れられた。この時道明は負傷している。同月22日、道明は時事新報に寄稿し、「冬の遊戯」と題してスウェーデンのそり・スキー・スケート事情を紹介し、レルヒによる指導より先に東京の人々にスキーを伝えた。さらに翌1912年(明治45年)1月には岩手県・青森県・秋田県・山形県の順に回り、スキーを行い、青森でのスキー講習は東奥日報で写真付きで報じられた。同年のスキー講習は、スキーの奨励・普及が主目的で、体操指導が従であった。しかし、道明が伝えたストックを2本用いる「二本杖スキー」は東北地方に普及せず、第13師団が講習で広めた「一本杖スキー」が浸透した。 その後も本郷中学校にスキー部を創設し、毎年12月に妙高高原の池の平で生徒とともにスキーを楽しんだ。
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