サッカー人として
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幼少期は川上哲治に憧れて野球に明け暮れたが、小石川高校を機にサッカーの面白さに取りつかれた。ポジションはミッドフィールダー。豊富なスタミナと運動量でチームを助け、得意のロングシュートでゴールに絡むプレースタイルだった。東京大学ア式蹴球部の創設90年記念誌では、日産自動車サッカー部(現在の横浜F・マリノス)の安達二郎、住友金属工業蹴球団(現在の鹿島アントラーズ)の石田金次郎と共に、Jリーグクラブの基礎を作ったOBとして特集されている。 サッカーが縁で東京ガスに入社したとのことで、入社後も同社サッカー部(現在のFC東京)に所属。30歳までプレーを続け、1980年からは監督を務めた。1993年からはサッカー部部長に就き、大熊清を中央大学から呼び戻すなど体制作りに力を注いだ。さらに、Jリーグ2部制導入(J2の創設)が決まる頃には、上司であり旧JFL評議員だった上原英治と共に、Jリーグ参入のための準備に奔走。東京フットボールクラブ株式会社(FC東京運営法人)を設立し、企業人として培った人脈を活かして同社を複数の会社による出資とする形態へと結びつけた。鳥原が地域密着性の高いエネルギー関係企業を中核にしたいと考えて協力を取り付けた東京電力(TEPCO)及び新日本石油(ENEOS)、さらに東京ガスを加えた3社は長年に渡りFC東京のユニフォームロゴスポンサーとして名を連ねていた。 その後も幾度と無くFC東京のホームスタジアムである味の素スタジアムへサッカー観戦に訪れている。 他スポーツに対する理解もあり、2009年、東京ガス硬式野球部が8年ぶりに都市対抗野球大会出場を決めた際には、「涙が出るほどうれしかった」と語っている。 2011年6月、「スポーツに熱心な企業経営者」として日本障がい者スポーツ協会会長兼日本パラリンピック委員会委員長(後に会長)に就任。2020年東京パラリンピックに向けた啓発に取り組んでいる。
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サッカー人として
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広島高等学校ではサッカー部に入部。名ストライカーとして知られる手島志郎は広島高校サッカー部の先輩にあたる。1931年には全国高等学校ア式蹴球大会に出場した。九州帝国大学でもサッカー部で主将を務めた。手島志郎は、市田のサッカー選手としての技量については「大したことなかった」という評価をスポーツライターの賀川浩(産経新聞記者)に語っている。 1957年に日本サッカー協会(JFA) 常務理事に就任。これは、流暢な英語を操り海外との交渉ごとに長けた市田を見込んだ手島が、サッカー界に引き込んだのであるという。アジアサッカー連盟(AFC)においてはトゥンク・アブドゥル・ラーマン会長(マレーシア首相)の心をつかみ、1958年にAFCを代表する形で国際サッカー連盟 (FIFA) 常任理事に選出された。東京オリンピック(1964年)を控える中で、数々の仕事をこなした。1959年にラーマンの提唱で始まったAFCユース選手権(現在のAFC U-19選手権)の発案者は市田であるという説も伝えられている(ただし、発案者はJFA会長の野津謙であるともいう)。 東京オリンピック(1964年)終了後、FIFA理事を辞め、JFAからも去った。
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