キリスト教の教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/22 14:49 UTC 版)
「ドゥラ・エウロポス」の記事における「キリスト教の教会」の解説
ドゥラ・エウロポスからは、判明した中ではもっとも初期のキリスト教の教会堂も発見されている。これは民家を教会堂に使用したもので、西の市壁沿いの第17塔付近の街区にあり、シナゴーグと同様256年の攻城戦に備えて埋められたために土中で保存される結果になった。「ローマの大きな兵営都市の只中に、教会が公然と許容されて存在したということは、初期のキリスト教会の歴史が、異教による迫害を受け続ける一方だったという単純なものではなかったことを明らかにしている」。洗礼室に残っていたフレスコ画は、おそらく現存最古のキリスト教絵画とされる(初期キリスト教美術)。この中には、「よき羊飼い」「中風の人を癒すイエス」「水の上を歩くイエスとペテロ」などの図像が見られるが、これらイエス・キリストの描かれた現存最古の絵画は235年に遡るとみられる。 洗礼室のより大きなフレスコには、大きなサルコファガス(石棺)へと近づく二人の婦人が描かれている(もう一人婦人が描かれているが、ほとんど失われている)。おそらくこれはキリストの墳墓を訪れる三人のマリア(クロパの妻マリア、マグダラのマリア、サロメなどとされる)とみられ、サロメの名は婦人の一人のそばに書かれている。またアダムとイヴやダビデとゴリアテを描いたフレスコもある。これらの絵画は明らかにヘレニズム・ユダヤ教の図像学的伝統に基づいているが、すぐ近くのシナゴーグの絵画に比べると仕上げは雑になっている。これらは現在、アメリカのイェール大学に収蔵されているが、アメリカ東海岸の気候の影響もあり劣化が進んでいる。 ヘブライ語の書かれた羊皮紙の巻物の断片も出土した。この翻訳は難航したが、J.L. Teicherはこれらが聖餐の祈りであると指摘し、ディダケーにある祈りと深い関係があると見て、ディダケーの文言と突き合わせて脱落部分を埋めている。 1933年、ドゥラ・エウロポスの町の正門・パルミラ門の外にあるごみ捨て場の文書の断片の中から、福音書の一部を書いたギリシア語の文書が見つかった。タティアヌス(Tatian)が4つの福音書を1冊にまとめた合併福音書(調和福音書)「ディアテッサロン」(Diatessaron)とも比較されるが、これとは独立したものとされる。
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