ウァレンティニアヌス朝
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ウァレンティニアヌス朝(ウァレンティニアヌスちょう)は、ウァレンティニアヌス1世、ウァレンス、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世の4人、もしくはこれに379年から東方正帝となったテオドシウス1世を含め5人のローマ皇帝から成る364年から392年のローマ帝国の王朝である。王朝の創始者であるウァレンティニアヌス1世・ウァレンス兄弟の母(名はファウスタとされる)はコンスタンティヌス朝に属するコンスタンティウス1世とその後妻テオドラの孫娘(2人の娘の1人アナスタシアの子)である為、コンスタンティヌス朝とは女系という形で血縁関係がある。故に兄弟はコンスタンティウス1世・テオドラ夫妻の曾孫で、コンスタンティヌス1世の大甥、クリスプスやコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世、コンスタンティウス・ガッルス、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスの従兄弟甥にあたる。
- ^ Showing Valentinian and Valens on the reverse, marked victoria augg· ("the Victory of Our Augusti"). They hold together the orb, a symbol of power
- 1 ウァレンティニアヌス朝とは
- 2 ウァレンティニアヌス朝の概要
- 3 歴史
- 4 参考文献
ウァレンティニアヌス朝
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「ローマ皇帝一覧」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説
詳細は「ウァレンティニアヌス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 ウァレンティニアヌス1世 FLAVIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS 西ローマ 321年キバラエ(属州パンノニア) 364年2月26日 – 375年11月17日 ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。 375年11月17日 自然死 ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS 東ローマ 328年キバラエ(属州パンノニア) 364年3月28日 – 378年8月9日 ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死 グラティアヌス FLAVIVS GRATIANVS AVGVSTVS 西ローマ 359年シルミウム(属州パンノニア) 367年8月4日 – 383年8月25日 ウァレンティニアヌス1世の長男。父の存命中に西方担当の共同皇帝として指名される。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。マグヌス・マクシムスに敗れて殺害される。 383年8月25日 マグヌス・マキシムスに敗死 ウァレンティニアヌス2世 FLAVIVS VALENTINIANVS INVICTVS AVGVSTVS 西ローマ 371年ミラノ(イタリア本土) 375年11月17日 – 392年5月15日 ウァレンティニアヌス1世の次男。父ウァレンティニアヌス1世の没後、兄グラティアヌスの共同皇帝として指名される。392年5月15日、宮廷で死体として発見される。 392年5月15日 自殺または他殺
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ウァレンティニアヌス朝
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「西ローマ帝国」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説
皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝権を再び分割し、東側の防衛を弟ウァレンスに任せた。東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、なかなか安定した時期が実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、古代ローマの伝統宗教を信仰する異教徒による政治的な反撥であった。ウァレンティニアヌス1世は古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、その子グラティアヌスは379年初頭にローマ皇帝として初めてポンティフェクス・マクシムス (pontifex maximus)の称号を止めている。 ポンティフェクス・マクシムスの称号はローマ教皇に移行し[いつ?]、382年にはローマ神官団 (pontifices) やウェスタ神殿の巫女から権利を剥奪し、アウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリアの勝利の祭壇(英語版)も元老院から撤去した。
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ウァレンティニアヌス朝
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「東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説
詳細は「ウァレンティニアヌス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS 328年キバラエ(属州パンノニア) 364年3月28日 – 378年8月9日 ウァレンティニアヌス1世の弟。ヨウィアヌス帝の事故死により、ウァレンティニアヌス1世が皇帝に即位し、同帝は自ら西方帝となるとともに、弟ウァレンスを共同皇帝(東方帝)とした。ハドリアノポリスの戦いでゴート人の反乱軍に敗れて戦死する。 378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死
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