イオニアの反乱
イオニアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 04:55 UTC 版)
詳細は「イオニアの反乱」を参照 紀元前499年に起こったイオニアの反乱に際しては、アテナイとエレトリアのギリシア勢が同じイオニア方言を語るギリシア人ということもあって反乱軍を支援し、ペルシアを牽制した。 しかし、イオニアの反乱は失敗し、介入はペルシアにとっては内政干渉であり、ギリシア侵攻の恰好の口実を与えることになった。イオニア反乱軍への援助決定の後、しばらくの間はクレイステネスを代表とする対ペルシア宥和派と、ミルティアデスら独立派による激しい議論が起きていたと考えられるが、反乱鎮圧後は、徐々に対ペルシア強硬派が台頭していった。 ペルシアへの対応と権力闘争が絡み合い、アテナイ民会が混乱する中、イオニアを平定したダレイオス1世はギリシア遠征軍派遣を決定し、ペルシア戦争と呼ばれる一連の戦争が開始された。
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イオニアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 15:44 UTC 版)
アナトリア半島のエーゲ海沿岸に居住していたギリシア人の一派であるイオニア人は、元々ダレイオス1世の王国に恭順の姿勢を示していた。アケメネス朝側の記録にはこのイオニア人はヤウナ や、陸地と海浜のヤウナ人 として記載されている。アケメネス朝はイオニア人のポリスに自治を認めつつ、従属的な僭主を統治者とすることで支配を行った。紀元前513年頃のダレイオス1世のスキタイ遠征の最中、スキタイ人はアケメネス朝の軍団に加わっていたギリシア人の部隊に調略を行い、ペルシアからの離反を唆した。アテナイ人でケルソネソスの僭主であったミルティアデスが同調しギリシア人の解放を主張したが、イオニアの主邑ミレトスの僭主ヒスティアイオスは、ダレイオス1世の存在によって自分達の地位が安泰なのであると主張し、他の僭主たちも同調したためこの時には離反は起こらなかった。 スキタイ遠征から引き揚げた後、ダレイオス1世は残留させたペルシア軍に周辺地域の平定に当たらせた。指揮官に任じられたメガバゾスはトラキア地方のほとんどを制圧し、パイオニアも平定してマケドニアの手前までを支配下に置いた。帰還したメガバゾスは、ミレトス僭主ヒスティアイオスが大功ありとして新たな領土を与えられたことを危険視し、彼を本国のスサに移させた。その後、メガバゾスの後任としてエーゲ海沿岸地域の司令官となったシサムネスの子オタネス はビュザンティオンとカルケドンを征服すると共に、レムノス島とインブロス島も制圧し、エーゲ海沿岸でのアケメネス朝の支配地は順次拡大した。 紀元前499年、アケメネス朝のサルディスのサトラップ、アルタプレネスはミレトスの臨時僭主アリスタゴラスと共謀し、ナクソスの内紛に乗じてこれを征服するべく、メガバテスを総司令官にナクソス遠征を企画した。しかし方針を巡ってメガバテスとアリスタゴラスが対立した上、4ヶ月に渡る包囲戦の末に軍資金が底をつき退却を余儀なくされた。失敗の責任を問われて地位を失うことを恐れたアリスタゴラスは反乱に踏み切った。アリスタゴラスが他のイオニア都市も反乱に引き込んだため、これがイオニアの反乱と呼ばれる反乱に発展した。アリスタゴラスは事を起こす前にアテナイやスパルタなどに支援を要請した。スパルタは協力を拒否したものの、アテナイとエレトリアがイオニアへ軍事支援を行った。 しかしアテナイは初戦の敗退の後イオニアを見放し、結果としてイオニアの反乱は紀元前494年にミレトスが陥落したことで鎮圧された。
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イオニアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 04:01 UTC 版)
ナクソスの失敗は、アリスタゴラスの政治的立場を危うくした。アリスタゴラスはペルシア人の激怒から免れようとする一心で、彼はミレトス人と他のイオニア人と共に反乱を計画し始めた。一方ヒスティアイオスは未だサルディスに留めおかれていた。彼はそこで奴隷の剃られた頭にメッセージを入れ墨していた。髪が生えそろうと、彼は奴隷をアリスタゴラスの元へと行かせた。メッセージはアリスタゴラスに反乱を起こすようにというものであった。ヒスティアイオスは再びミレトスを目にするのに必死であり、ダレイオスにナクソスの反乱に対処するために自らを行かせて欲しいことを希望した。すでに反乱を決意したアリスタゴラスは紀元前499年ミレトスで反乱に同意した支持者と共に会議を開いた。アリスタゴラスは歴史家ヘカタイオスを除く大部分の市民によって支持された。彼はペルシアの艦隊指揮官を捕らえるため男たちをミュウスに送った。それから、彼は同盟国を求めてラケダイモンに旅立った。
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イオニアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 09:17 UTC 版)
紀元前499年のことである。ヒスティアイオスは最も信頼する奴隷の髪の毛を剃り、その頭にメッセージを刺青し、髪の毛がまた生え揃うのを待って、アリスタゴラスの所に旅立たせた。アリスタゴラスは奴隷の頭を剃って、ヒスティアイオスのメッセージを読んだ。その内容は、ペルシアに対して反乱を起こすことだった。アリスタゴラスはナクソス島遠征の失敗以降、部下たちからも嫌われていたので、汚名返上のいい機会だと、ヒスティアイオスの命令に従うことに決め(V.35-36)、アテネとエレトリアに応援を頼んだ。そして、サルディスを炎上させた(V.97-102)。いささか眉唾ものではあるが、これがヘロドトスの語る、イオニアの反乱の原因のすべてである。ダレイオス1世は反乱の知らせを聞いた時、ヒスティアイオスを呼びにやった。ヒスティアイオスは何も知らないふりを通して、逆に、その鎮圧に行かせて欲しいと頼んだ。ダレイオス1世はまんまと騙されて、それを許した。 ミレトスに向かう途中、ヒスティアイオスはサルディスに寄った。そこで、アルタフェルネス提督からも反乱の原因を訊かれたが、ヒスティアイオスはここでも知らないふりを通した。しかし、アルタフェルネスは事件の全貌に気がついた。ヒスティアイオスはやむなくキオス島に逃げた。その時、サルディアの何人かのペルシア人を巻き込んだのだが、後で彼らはアルタフェルネスに殺された。ヒスティアイオスはキオス島で艦隊を作ろうとしたが、それは成功しなかった。その代わりに、ミレトスの僭主に復帰しようとした。しかしミレトスの人々はそれを望まず、ヒスティアイオスをレスボス島に追放した。ヒスティアイオスはその島で船を集め、ヘロドトスの話によれば、ビュザンティオンを基地に、黒海やエーゲ海で海賊行為を働きだした(VI.1-5)。反乱の間、ダライオス1世がボスポラス海峡を支配下に置いた可能性は充分ある。 一方、ペルシア軍は紀元前494年のラデ沖の戦いで反乱を鎮圧した。それを知ったヒスティアイオスは、ビュザンティオンを出て、キオス島を攻撃し、タソス島を封鎖した。それからペルシア軍を攻撃するため、本土に上陸しようとした。ギリシア軍がペルシア軍と戦うため結集したが、ヒスティアイオスはペルシア軍将軍ハルパゴスに捕まってしまった。アルタフェルネス提督はヒスティアイオスをスーサに送り返したくなかった。ダレイオス1世がヒスティアイオスを赦すことがわかっていたからだ。それで提督はヒスティアイオスを処刑して、その首をミイラにしてダレイオス1世に送った。この時には、さすがにダレイオス1世もヒスティアイオスを信じておらず、逆賊の首を、名誉ある埋葬に処すこともなかった(VI.26-30)。
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