アラゴン十字軍とは? わかりやすく解説

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アラゴン十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/30 01:55 UTC 版)

アラゴン十字軍 (カタルーニャ語: Croada contra la Corona d'Aragó) は、アラゴン王ペドロ3世に対して結成され、1284年から1285年にかけてアラゴン王国に侵攻した十字軍。海上での敗北と伝染病により失敗に終わった。


  1. ^ Antonio Zaldívar, "Emphasizing Royal Orders Using the Romance Languages: An Example of Strategic Codeswitching in the Crown of Aragon's Thirteenth-century Royal Chancery", in Yuen-Gen Liang and Jarbel Rodriguez (eds.), Authority and Spectacle in Medieval and Early Modern Europe: Essays in Honor of Teofilo F. Ruiz (Routledge, 2017), pp. 73–83, at 76.


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アラゴン十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 05:13 UTC 版)

ペドロ3世 (アラゴン王)」の記事における「アラゴン十字軍」の解説

1284年フランス王フィリップ3世ヴァロワシャルル率いフランス軍初めルシヨン地方進軍した(アラゴン十字軍)。この軍隊16,000騎兵17,000石弓兵10万歩兵からなっており、南フランスの港に100隻の船が停泊していた。フランス軍マヨルカ王ジャウメ2世支援受けていたものの、マヨルカ王国地元住民フランス軍反発したエルヌの町はルシヨン伯ヌーニョ・サンチェス(英語版)の私生児中心として勇敢に守り固めたが、結局はフランス王室の力が勝って大聖堂焼いた1285年6月以降フィリップ3世ジローナ入城する前に町を包囲した激し抵抗遭ったものの、ジローナフランス軍前に陥落した実際に王冠がなかったものの、シャルルジローナヴァロワ伯の戴冠式行っている。9月4日にはフランス軍シチリア王国アラゴン王国連合軍の間でフルミゲスの戦い英語版が行われたが、ルッジェーロ・ディ・ラウリーア将軍率い連合軍フランス軍勝利した。これに加えてフランス軍野営地赤痢流行にも苦しめられフィリップ3世自身赤痢かかったナバラ王フェリペ1世フランス王国相続人であり、アラゴン王家が自国領やピレネー山脈通って自由に通行できることを見返りに、ナバラ王国攻撃しないようペドロ3世交渉した9月30日から10月1日にはパニサルス峠の戦い英語版)でアラゴン軍がフランス軍勝利したフィリップ1世10月5日マヨルカ王国イベリア半島領土首都であるペルピニャン病死しナルボンヌ埋葬された。ジャウメ2世自身ペドロ3世対す恐れから降伏し、兄であるペドロ3世仕えると宣言した

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アラゴン十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:02 UTC 版)

シチリア晩祷戦争」の記事における「アラゴン十字軍」の解説

詳細は「ca:Croada contra la Corona d'Aragó」を参照 1284年マルティヌス4世は、シャルル1世の甥フィリップ3世大胆王の四男ヴァロワシャルルアラゴン王国授けた。この教皇是認した戦争、すなわち十字軍のことを歴史家H. J. Chaytor は「ことによるとカペー家王権によって企てられた最も不正かつ不必要、そして悲惨な目論見である」と叙述している。ルッジェーロがいまだ、ペドロ3世獲得したシチリア確固たるものにしていた頃、ペドロ自身シャルル1世決闘するために密かにフランス入ったものの、失敗したことからアラゴン帰国しシャルルの方は再びイタリア入って同地死去している。 ペドロ3世は、フランスアラゴン侵攻準備していた間、自国不安な情勢対処していた。ペドロアルバラシン反逆貴族フアン・ヌニェス1世・デ・ララ(スペイン語版)から奪回しカスティーリャサンチョ4世勇敢王と新たに同盟しフィリップ3世次男ナバラ国王フィリップによる正面攻撃を防ぐのを試みるため、トゥデラ攻撃した1283年ペドロ3世の弟であるマヨルカ国王ジャウメ2世フランス側加勢して、そのモンペリエ全土領有権認めてバレアレス諸島及びルサリョ(ルシヨン)を自由に航行出来るようにした。同時にジャウメ2世は、ルサリョ伯領(カタルーニャ語版)を継承していたことから、フランスアラゴン間に立っていたのであるペドロ3世はジャウメ2世が若いという理由でその継承反対したことから、この種の十字軍という形での対抗という顛末迎えることになった1284年フィリップ3世ヴァロワ親子率い最初十字軍ルシヨン入ったその内訳は、16,000人の騎兵17,000人の弩弓兵100,000人の歩兵、及び南フランス港の100艘の艦船であったフランス軍がジャウメ2世支援したにもかかわらず現地民はその軍に対して反旗を翻したエルヌは「ルシヨン私生児」(bâtard de Roussillon)と呼ばれたヌノ・サンチェス(ca, 1212年から1242年までルシヨンであった)の庶子によって果敢に守り抜かれたものの、最終的に屈服し聖堂焼き払われて、フランス軍優位性保ち続けた1285年フィリップ自らがジローナ包囲試みて塹壕巡らした。同都市頑強に抵抗したにもかかわらず攻め落とされた。ヴァロワ伯はこの地で、王冠抜きでの戴冠執り行ったフランス軍はすぐに退却したが、ルッジェーロの手によってイタリア戦域戦闘巻き込まれる羽目となった。フォルミゲスの戦いカタルーニャ語版)でフランス艦隊敗北し艦船破壊された。その上フランス軍陣営赤痢襲われフィリップ3世自らが感染したフランス王継承者であるナバラ王フィリップは、一族ピレネー山脈自由に通行できるよう、ペドロ3世との交渉開始した。しかしフランス軍通行申し出を受けなかったことから、コル・デ・パニサルスの戦いカタルーニャ語版)で完膚なきまでに叩きのめされた。フィリップ3世は、ペドロ3世支配恐れて亡命してきたジャウメ2世の都であったペルピニャン没しナルボンヌ葬られた。 宿敵であるシャルル1世フィリップ3世の死と同じ年の11月2日ペドロ3世死去したペドロ臨終の際、自らの征服は自らの家名よるもの決し教会への反逆ではない、と宣告したことで罪の赦し得た1287年6月23日ナポリ付近アンジュー家敗北した伯爵戦いカタルーニャ語版)から数年後1291年締結されタラスコン条約により、ペドロ3世後継者である新国アルフォンソ3世は公式にアラゴン回復し教会からの破門外された。

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