アラゴン十字軍
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アラゴン十字軍 (カタルーニャ語: Croada contra la Corona d'Aragó) は、アラゴン王ペドロ3世に対して結成され、1284年から1285年にかけてアラゴン王国に侵攻した十字軍。海上での敗北と伝染病により失敗に終わった。
- ^ Antonio Zaldívar, "Emphasizing Royal Orders Using the Romance Languages: An Example of Strategic Codeswitching in the Crown of Aragon's Thirteenth-century Royal Chancery", in Yuen-Gen Liang and Jarbel Rodriguez (eds.), Authority and Spectacle in Medieval and Early Modern Europe: Essays in Honor of Teofilo F. Ruiz (Routledge, 2017), pp. 73–83, at 76.
- 1 アラゴン十字軍とは
- 2 アラゴン十字軍の概要
- 3 アラゴンの勝利
- 4 参考文献
アラゴン十字軍
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「ペドロ3世 (アラゴン王)」の記事における「アラゴン十字軍」の解説
1284年、フランス王フィリップ3世とヴァロワ伯シャルルが率いるフランス軍が初めてルシヨン地方に進軍した(アラゴン十字軍)。この軍隊は16,000の騎兵、17,000の石弓兵、10万の歩兵からなっており、南フランスの港に100隻の船が停泊していた。フランス軍はマヨルカ王ジャウメ2世の支援を受けていたものの、マヨルカ王国の地元住民はフランス軍に反発した。エルヌの町はルシヨン伯ヌーニョ・サンチェス(英語版)の私生児を中心として勇敢にも守りを固めたが、結局はフランス王室の力が勝って大聖堂を焼いた。 1285年6月以降、フィリップ3世はジローナに入城する前に町を包囲した。激しい抵抗に遭ったものの、ジローナもフランス軍の前に陥落した。実際には王冠がなかったものの、シャルルはジローナでヴァロワ伯の戴冠式を行っている。9月4日にはフランス軍とシチリア王国・アラゴン王国連合軍の間でフルミゲスの戦い(英語版)が行われたが、ルッジェーロ・ディ・ラウリーア将軍が率いる連合軍がフランス軍に勝利した。これに加えて、フランス軍の野営地は赤痢の流行にも苦しめられ、フィリップ3世自身も赤痢にかかった。ナバラ王フェリペ1世はフランス王国の相続人であり、アラゴン王家が自国領やピレネー山脈を通って自由に通行できることを見返りに、ナバラ王国を攻撃しないようペドロ3世と交渉した。9月30日から10月1日にはパニサルス峠の戦い(英語版)でアラゴン軍がフランス軍に勝利した。フィリップ1世は10月5日、マヨルカ王国のイベリア半島領土の首都であるペルピニャンで病死し、ナルボンヌに埋葬された。ジャウメ2世自身はペドロ3世に対する恐れから降伏し、兄であるペドロ3世に仕えると宣言した。
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アラゴン十字軍
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詳細は「ca:Croada contra la Corona d'Aragó」を参照 1284年にマルティヌス4世は、シャルル1世の甥フィリップ3世大胆王の四男ヴァロワ伯シャルルにアラゴン王国を授けた。この教皇が是認した戦争、すなわち十字軍のことを歴史家のH. J. Chaytor は「ことによるとカペー家の王権によって企てられた最も不正かつ不必要、そして悲惨な目論見である」と叙述している。ルッジェーロがいまだ、ペドロ3世が獲得したシチリアを確固たるものにしていた頃、ペドロ自身はシャルル1世と決闘するために密かにフランスに入ったものの、失敗したことからアラゴンに帰国し、シャルルの方は再びイタリアに入って同地で死去している。 ペドロ3世は、フランスがアラゴン侵攻を準備していた間、自国の不安な情勢に対処していた。ペドロはアルバラシンを反逆貴族フアン・ヌニェス1世・デ・ララ(スペイン語版)から奪回し、カスティーリャのサンチョ4世勇敢王と新たに同盟し、フィリップ3世の次男のナバラ国王フィリップによる正面攻撃を防ぐのを試みるため、トゥデラを攻撃した 。 1283年にペドロ3世の弟であるマヨルカ国王ジャウメ2世はフランス側に加勢して、そのモンペリエ全土の領有権を認めてバレアレス諸島及びルサリョ(ルシヨン)を自由に航行出来るようにした。同時にジャウメ2世は、ルサリョ伯領(カタルーニャ語版)を継承していたことから、フランスとアラゴンの間に立っていたのである。ペドロ3世はジャウメ2世が若いという理由でその継承に反対したことから、この種の十字軍という形での対抗という顛末を迎えることになった。1284年にフィリップ3世、ヴァロワ伯親子率いる最初の十字軍がルシヨンに入った。その内訳は、16,000人の騎兵、17,000人の弩弓兵、100,000人の歩兵、及び南フランス港の100艘の艦船であった。フランス軍がジャウメ2世を支援したにもかかわらず、現地民はその軍に対して反旗を翻した。エルヌは「ルシヨンの私生児」(bâtard de Roussillon)と呼ばれたヌノ・サンチェス(ca, 1212年から1242年までルシヨン伯であった)の庶子によって果敢に守り抜かれたものの、最終的には屈服し、聖堂は焼き払われて、フランス軍は優位性を保ち続けた。 1285年にフィリップ自らがジローナ包囲を試みて、塹壕を巡らした。同都市は頑強に抵抗したにもかかわらず攻め落とされた。ヴァロワ伯はこの地で、王冠抜きでの戴冠を執り行った。フランス軍はすぐに退却したが、ルッジェーロの手によってイタリア戦域の戦闘に巻き込まれる羽目となった。フォルミゲスの戦い(カタルーニャ語版)でフランス艦隊は敗北し、艦船は破壊された。その上、フランス軍の陣営は赤痢に襲われ、フィリップ3世自らが感染した。フランス王位継承者であるナバラ王フィリップは、一族がピレネー山脈を自由に通行できるよう、ペドロ3世との交渉を開始した。しかしフランス軍は通行の申し出を受けなかったことから、コル・デ・パニサルスの戦い(カタルーニャ語版)で完膚なきまでに叩きのめされた。フィリップ3世は、ペドロ3世の支配を恐れて亡命してきたジャウメ2世の都であったペルピニャンで没し、ナルボンヌに葬られた。 宿敵であるシャルル1世とフィリップ3世の死と同じ年の11月2日にペドロ3世も死去した。ペドロは臨終の際、自らの征服は自らの家名によるもので決して教会への反逆ではない、と宣告したことで罪の赦しを得た。1287年6月23日にナポリ付近でアンジュー家が敗北した伯爵の戦い(カタルーニャ語版)から数年後の1291年に締結されたタラスコン条約により、ペドロ3世の後継者である新国王アルフォンソ3世は公式にアラゴンを回復し、教会からの破門を外された。
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