アジア博物館とは? わかりやすく解説

アジア博物館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:51 UTC 版)

ロシア科学アカデミー東洋学研究所」の記事における「アジア博物館」の解説

ロシア科学アカデミー東洋学研究所公式ホームページは、研究所歴史始まった時点を、研究所前身であるアジア博物館(Asiatic Museum)が1818年11月設立されたときに置いている。1818年11月ロシア帝国科学アカデミーは、アレッポトリポリ駐在したフランス領ジャンバティスト・ルソーフランス語版)からイスラーム教関連写本700点を購入することを決定したフランス・フラン51,000フラン支払い1819年1825年の2回に分けて写本輸送する購入計画であった当時帝国科学アカデミー総裁セルゲイ・ウヴァーロフは、東洋硬貨手写本などを陳列する特別な場所が必要であるとする意見添えて1818年11月15日アカデミー評議会に諮り、その結果帝国科学アカデミー新部門としてアジア博物館が組織された。ウヴァーロフの意見書かれ書簡によると、彼はアジア博物館が「資料興味がある者なら誰にでも開かれている」博物館となることを構想していた。開館当初のアジア博物館は「クンストカメラ」の建物一区画入居していた。 アジア博物館の初代館長はクリスティアン・マルティン・フレーン(英語版)。彼は開館翌年2019年11月、『サンクトペテルブルク新聞』(Sankt-Peterburgskie vedomosti)紙上に、アジア博物館が一年間得た学術的知見報告した以後年次報告伝統になり、1849年からはアジア博物館自体発行主体となって逐次刊行物、Mélanges Asiatiques を発刊していく。Mélanges Asiatiques はフランス語記述された。 アジア博物館は国費助成を受け、ロシア国内もとより他国研究者収蔵資料利用できるように整備されていった東洋貴重なコレクション展示する博物館という当初コンセプトから、次第に、文献資料研究のための図書館研究センターへと変化したロシアにおける東洋学発展し、アジア博物館がロシアにおける唯一の東洋学研究の中心拠点であったところ、カザン大学第二拠点へと発展し1855年にはサンクトペテルブルク大学歴史古典学部から東洋言語学部が分離し新たな東洋学研究拠点になった1876年には第三回国際東洋学者会議英語版)がサンクトペテルブルク開催され、アジア博物館は同会議中心的な役割担った開館から100年経過した1910年代には、アジア博物館は、東洋歴史考古学宗教文化民族文化原語文学を含む幅広い領域研究するための、国際的に重要な研究拠点へと発展した資料収集1917年まで継続して精力的に行われていた。1915年にはのちにイスマーイール・シーア派の研究高名になるイワノフ中央アジア旅行し1100点に上る写本収集した当時、カール・ザーレマン(英語版)が館長務めていたころのアジア博物館はすでに博物館あるいは列品館としては機能しておらず、実質的に図書館あるいは研究センターであった

※この「アジア博物館」の解説は、「ロシア科学アカデミー東洋学研究所」の解説の一部です。
「アジア博物館」を含む「ロシア科学アカデミー東洋学研究所」の記事については、「ロシア科学アカデミー東洋学研究所」の概要を参照ください。

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