いざわ‐やそべえ〔ゐざはやソベヱ〕【井沢弥惣兵衛】
井澤弥惣兵衛(いざわやそべえ 1654-1738)
見沼代用水の開削及び手賀沼などの新田開発者、治水家。
井澤弥惣兵衛は、紀伊那賀郡(現海南市)の豪農の家に生まれ、徳川光貞に見いだされて勘定方となった。その後、紀州藩主徳川吉宗の命を受けて紀ノ川流域の新田開発を手がけた。
徳川吉宗が8代将軍として江戸城に入り、財政立て直しのために新田開発を奨励するに及んで、紀州藩士から幕臣となっていた井澤弥惣兵衛に、見沼代用水の開削及び周辺地域の干拓を命じる。井澤は1728(享保13)年に、見沼代用水事業に着手する。
同事業は、利根川から引水する幹線だけでも約80km、さらに多数の分流路からなる見沼代用水を開削し、同時に周辺沼地を干拓農地化するという壮大な計画であった。用水路の工事に伴う測量は、水盛りと呼ばれる水準測量で行われ、約1/600の傾斜を持つ水路が計画された。
また、計画された水路と旧来河川を立体交差させる場所では「伏越(ふせごし:サイフォンの原理)」、さらに船の自由航行が必要な個所などでは樋を使った「懸樋(かけひ)」が使用された。これらの技術は、同時期に紀ノ川小田井用水工事で活躍した、大畑才蔵(1642-1720)が使用した技術に通じる、「紀州流」と呼ばれる優れた土木工事と測量技術が力を発揮した。
中でも、3mの水位差がある芝川と見沼代用水結ぶ見沼通船堀(水路)は、享保16年(1731)に開通した日本最古の閘門式運河である。規模こそ異なるものの、同形式のパナマ運河完成の183年前のことであった。
その後の井澤弥惣兵衛は、多摩川改修、手賀沼の新田開発、木曾三川改修計画などにあたり、1731(享保20)年には、美濃国郡代に就任した。
現白岡町の常福寺には分骨を受けた墓が、さいたま市見沼区の萬年寺には、井澤弥惣兵衛の用水工事などによって、恩恵を受けた農民諸氏が後に建立した頌徳碑が残されている。
見沼通船堀
井澤弥惣兵衛は、紀伊那賀郡(現海南市)の豪農の家に生まれ、徳川光貞に見いだされて勘定方となった。その後、紀州藩主徳川吉宗の命を受けて紀ノ川流域の新田開発を手がけた。
徳川吉宗が8代将軍として江戸城に入り、財政立て直しのために新田開発を奨励するに及んで、紀州藩士から幕臣となっていた井澤弥惣兵衛に、見沼代用水の開削及び周辺地域の干拓を命じる。井澤は1728(享保13)年に、見沼代用水事業に着手する。
同事業は、利根川から引水する幹線だけでも約80km、さらに多数の分流路からなる見沼代用水を開削し、同時に周辺沼地を干拓農地化するという壮大な計画であった。用水路の工事に伴う測量は、水盛りと呼ばれる水準測量で行われ、約1/600の傾斜を持つ水路が計画された。
また、計画された水路と旧来河川を立体交差させる場所では「伏越(ふせごし:サイフォンの原理)」、さらに船の自由航行が必要な個所などでは樋を使った「懸樋(かけひ)」が使用された。これらの技術は、同時期に紀ノ川小田井用水工事で活躍した、大畑才蔵(1642-1720)が使用した技術に通じる、「紀州流」と呼ばれる優れた土木工事と測量技術が力を発揮した。
中でも、3mの水位差がある芝川と見沼代用水結ぶ見沼通船堀(水路)は、享保16年(1731)に開通した日本最古の閘門式運河である。規模こそ異なるものの、同形式のパナマ運河完成の183年前のことであった。
その後の井澤弥惣兵衛は、多摩川改修、手賀沼の新田開発、木曾三川改修計画などにあたり、1731(享保20)年には、美濃国郡代に就任した。
現白岡町の常福寺には分骨を受けた墓が、さいたま市見沼区の萬年寺には、井澤弥惣兵衛の用水工事などによって、恩恵を受けた農民諸氏が後に建立した頌徳碑が残されている。
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