YKK (政治同盟)
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小泉と山崎
小泉の総理就任直後は党内の支持基盤が磐石ではなく、出身派閥内でも森会長を筆頭に小泉の急進的なやり方に反対・苦言を呈する者が多かった。ここで山崎が幹事長として、小泉首相に欠けていた党内人脈や公明党とのパイプを生かし、全面的に小泉を支え続け孤軍奮闘した。政策面では竹中平蔵・経済財政担当大臣に頼った小泉だが、党務・政局では唯一信頼・相談できる存在が山崎であった。党内から何度も更迭論が出る中、山崎は小泉を献身的に支え続け、小泉も山崎に信頼を置き、二人の盟友関係ぶりが一番際立った時期でもある。
しかし、内閣支持率が徐々に下がっていき、いよいよ自らの支持基盤を党内に求めなくてはならなくなった時に内閣改造(2003年9月)を迎え、ここで森、青木幹雄、古賀誠などの党内有力者や公明党から支持の見返りに、山崎、竹中のどちらか(もしくは両方)の更迭を再び決定的に突きつけられた。
ここで小泉は苦渋の決断で山崎を切った。副総裁に名前こそ昇格したものの副総裁は名誉職的意味合いが強い。
失意の中の山崎はスキャンダル騒動にもみまわれ、人事2ヵ月後の2003年の総選挙で落選してしまう。しかし、抵抗勢力への盾役、党・公明党へのパイプ、政治全般の相談役を担っていた山崎が小泉には欠かせなく、落選した山崎を民間人、非常勤の内閣総理大臣補佐官として起用する。後に当選した民主党議員がスキャンダルで辞職し、2005年に補選で議員として返り咲いた。この時、小泉は選挙区に応援に駆けつけ「拓さんがいるから私がいる!」、「私に盾を」と山崎の力が今尚必要なことを強調した。加藤も選挙に全面的協力をしている。
2人の関係がおかしくなり始めたのは、山崎派の武部勤を幹事長に起用したあたりからである。そして顕著になったのが、郵政解散後の人事であった。山崎派は森派以外で小泉内閣に一貫して全面的バックアップをしてきた唯一の派(加藤派、当時小里派(現・宏池会 (谷垣派))は基本的には小泉内閣支持であったが、ときには内閣と距離を取ったケースもあった)であったが、解散総選挙後の人事で入閣が事実上のゼロであった(幹事長に武部が留任しているものの、この解散時には既に武部は山崎派とは疎遠に近い関係であった)。もともとこれまでの改造人事で、全面支持している割には森派に比べて人事で優遇されていないと不満があった山崎派は、選挙大勝のうえ小泉内閣最後の組閣となるこの人事に期待を寄せていた。しかし、冷遇されたため不満が爆発し、その矛先は会長である山崎にも向けられ、山崎もこの時から反小泉的行動が徐々に増えていき、総裁選が近づくにつれ二人の関係が終わったことは周知の事実となった。また、内閣改造とほぼ同時期に山崎は、日本歯科医師連盟からの献金をめぐり東京地検から任意で再聴取を受けており、このことはマスコミにも報じられる。山崎は、同事情聴取報道を総理大臣官邸による意図的なリークと認識し、対立が決定的になったとされる。同献金事件で、検察は山崎に対する立件を行わなかったが、2005年7月27日に東京第2検察審査会は起訴相当との議決を行っている(その後改正された現在の検察審査会法では、起訴相当の議決が2度出された際には必ず起訴を行わなければならない)。
YKKの政界引退後は小泉と山崎はしばしば会談しており、2020年7月には安倍晋三総理の後継について「来年(2021年)は岸田か石破だ」という認識で一致した[2](この後安倍が自身の健康問題により辞任するが、その辞意を表明したのは2020年8月28日であり、この会談では安倍の任期満了に伴う後継者に関する発言であった。しかし、菅義偉の辞任を経て、実際に2021年10月4日に岸田文雄が第100・101代内閣総理大臣に就任した)。さらに二階俊博や中川秀直を加えて4人と定期的に会食をしている。二階が第49回衆議院議員総選挙に出馬を決意した直後の会食では彼らが二階を激励した[3]。
- ^ “加藤紘一氏への弔辞で山崎拓氏「YKK」というネーミングは君の発案」”. スポーツ報知 (2016年9月15日). 2016年9月15日閲覧。
- ^ “「来年は岸田か石破だ」小泉元総理と山崎拓氏が会談”. テレ朝news (2020年7月30日). 2021年12月14日閲覧。
- ^ “小泉元首相ら二階氏激励 衆院選向け、都内で会食”. 日本経済新聞 (2021年10月13日). 2021年12月14日閲覧。
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