BTRON 歴史

BTRON

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 16:28 UTC 版)

歴史

この節で、他に特記なき記述は、ウェブアーカイブで参照した、トロン協会ウェブサイトの「沿革」[12]による。

BTRONサブプロジェクトの開始

最初期の記録としては、「マイクロコンピュータ応用国際コンファレンス'84」予稿集(1984)に収録された「TRONプロジェクト」中での "B-TRON" への言及、「アーキテクチャワークショップインジャパン'84」シンポジウム論文集に収録された「TRONトータルアーキテクチャ」中でのBTRONへの言及、『情報処理』Vol.26 No.11 (1985/Nov、創立25周年記念特集号)「BTRONにおける統一的操作モデルの提案」がある。

1986年、TRONプロジェクトのサブプロジェクトとしてBTRONプロジェクトが本格的に始動し、BTRON技術委員会をトロン協会に設置した。初期の構想はIEEE MicroのTRON特集号 (Vol. 7, No. 2 (1987/Apr)) の記事にまとめられており、同号を翻訳収録した『TRON概論』で読むことができる。

1988年6月発行の『TRON概論』には、数枚のスクリーンショットと、「インプリメント事例」として松下電器産業(株)による「BTRON286」の報告が収録されている。

1988年12月にトロン協会が「BTRON/286」の仕様概要を公開し、翌1989年3月、松下電器が、次節で述べる教育用を企図した「教育用パソコン仕様標準構想」とした実用レベル機を完成させた。

教育用パソコンへの導入計画

1986年4月に臨教審が出した「教育改革に関する第二次答申」にもとづき、同年7月、文部省と通産省共管の、財団法人コンピュータ教育開発センター(CEC)が設立された。CECは、当時の学校教育、特に義務教育へのコンピュータ導入に向け、1987年4月に教育ソフトライブラリを設立、同7月にシンポジウム開催といった活動をしていた。同8月、CECは「CECコンセプトモデル'87」と銘打って教育用パソコンの試作を募集、これに応じて集まった試作機を翌1988年7月に公開展示するなど、教育用のパソコンの方向を示す意欲を見せていた。[13][14]

1989年3月、CECが学校に導入するパソコンにはTRONをという決定をくだした[15]。これにより(B)TRON普及の足がかりとなるかと思われたが、これが次節に述べる通商問題でクレームの対象となってしまった。

この際に示された「教育用パソコン」のキーボードおよびキー配列は、TRONキーボードではなく、新JIS配列をベースとしたものであった。

なお、教育用として、あえて市場シェアが大きくはない製品を採用する、というのは他例のない話ではなく、英国のエイコーン・コンピュータのような例がある。

通商問題

1989年アメリカ合衆国通商代表部の報告書において、日本における貿易障壁非関税障壁)としてTRONが挙げられる、という事件が起きた。

詳細は次の通りである。1989年4月12日にUSTRが発行した報告書 "1989 National Trade Estimate Report on Foreign Trade Barriers"(「外国貿易障壁報告書」(ISSN 0898-3887)1989年版)内の、日本の貿易障壁についての報告中、セクション7 "7. OTHER BARRIERS" において、「半導体」「光ファイバー」「航空宇宙」「自動車部品」「流通システム」「商慣行(Marketing Practice Restrictions)」「大店法」のようにサブセクションを設けて列挙されたうちのひとつがTRONであった。他が基本的に分野を挙げているのに比べて、特定のシステムの名指しは異様である。

報告では、いくつかの米国企業もトロン協会のメンバーではあるが、TRONベースのPCや通信機器を売る位置を占めている米国企業は無いこと、日本政府がTRONを支持していることにより日本のメーカーが有利になりうる、特に教育分野(前述のCECに言及)と通信分野(NTTのCTRON採用に言及)で既にそれは起きている、と指摘している。

さらに、教育分野ではTRONにより、米国のOS(具体的にMS-DOS、OS/2、UNIX[16]を例示している)が巨大な新しい市場から排除されつつあるとし、長期的にはTRONは日本のエレクトロニクス分野の全市場に影響し得る、と分析している。報告の最後のパラグラフでは、既に1988年9月9日(以降)、米国から日本にこれらの件に関心を持っていることを伝えており、1989年3月にはNTTの件について詳しい要求仕様を示すよう交渉が行われ、日本政府を通してTRONについてさらなる情報を調査中であると締めくくっている。

トロン協会は5月にUSTR代表あてに文書で抗議し、TRONは外された[17]。しかし同年6月、マスコミは「教育用パソコンにBTRON採用断念」と報道した[18]。たとえば『日経コンピュータ』は「BTRONベースの教育用パソコン 標準化は事実上不可能に」と報じている[19]。紆余曲折はあったものの、結局、CECの提唱したBTRONの導入は実施されず、学校教育に導入されたのは、PC-9801をはじめとするMS-DOSマシンであった。これを契機に、TRONプロジェクト、特にBTRONプロジェクトは失速期に入り、「失敗」などとレッテル貼りをする者などもあらわれるようになる。

この騒動の背景として、1990年代当時は、パソコン市場シェアの過半数を占めており、CECの選定において1988年当時、松下を筆頭とする他社全者連合(IBMをも含んでいた)を敵に回して反対していた[15]日本電気や、MS-DOSを擁するマイクロソフトの名が囁かれていた[20]。また、かねてからの日米貿易摩擦に加えての80年代の日米ハイテク摩擦、ジャパンバッシング日本株式会社論、IBM産業スパイ事件、CACMの83年9月号の表紙イラスト[21]に代表される日本脅威論などが記憶に新しい時代であり、TRON自身もIEEE MicroがTRON特集を組んだり(87年4月など)米国で目立ったであろう要素もあった。

CECの選定取り消しについては、大下英治『孫正義 起業の若き獅子』によれば、かねてより自社の事業であるソフト流通業が儲かるような業界態勢作りに腐心していた孫正義により、TRONによって日本の産業がグローバルスタンダードから外れ世界に取り残されると煽って盛田昭夫から紹介された棚橋祐治(当時通産省機械情報産業局長)、林良造(当時同局情報処理振興課長)らと「TRON壊滅へのレールが敷かれはじめ」ていたところだったが、この機会にスーパー301条を楯にプロジェクトを潰してしまえ、という孫によるアドバイスにより、通産省は学校へのTRON導入を中止したという[22]。同書の見出しには「TRON蔓延を水際で阻止」とある。

この件に関して、TRONプロジェクト側では異例の意見表示があった。パーソナルメディア社が編集・刊行しているTRONWARE誌の60号(1999年12月発行)p. 71において、編集部の署名で「TRONプロジェクトを阻んだ人」と題した記事で、前述の伝記を、(TRONを妨害した)「成果を誇る」本を出した人がいる、と紹介した。同記事では、孫がMSXに反対したこと、Unixを一旦は支持したようだったことなどを紹介し、また伝記中で紹介されている、孫、西、坂村が一堂に会したカンファレンスについて、坂村による、それはUnixの技術者のカンファレンスだったはずで自分も西も技術の話をしたが孫氏は商売の話をして場違いな感じだったと記憶している、といった証言を載せたりもしているが、全体としては、独自技術の芽を潰すことが正しいことか? とまとめている。

なお、1988年12月に、ソフトバンク(当時は(株)日本ソフトバンク)出版部(現ソフトバンククリエイティブ)より、『コミック版 トロン革命』( ISBN 4-89052-037-6 )という書籍が出版されている。

PanaCAL ET

1993年から中学校技術科の選択内容に「情報」が入る準備として、1990年度から文部省による「教育用コンピュータ補助事業」が始まった。

前節までに述べたような経緯があったが、これに合わせBTRONマシンとして松下通信工業から、BTRON286をベースとしたOS「ETマスター」を搭載した教育用パソコン「PanaCAL ET」が発売された。ハードウェアはPanacom Mをベースとし、教育用向けのために24ドットフォントROM等を強化したものだった。[23]

しかし、この時に学校に導入された機種は、その多くが、先取的な教師により既に多数作られていたBASICのプログラムやワープロソフトのデータを継承できるという理由からか、PC-9800シリーズだった。

90年代以降

  • 1989年12月 BTRON1ソフトウェア仕様書 公開
  • 1989年12月 日本航空によるBTRONを使用した予約システムの開発
  • 1990年 松下通信工業から、BTRON1仕様(BTRON286ベース)の「ETマスター」を搭載したPanaCAL ET発表
  • 1991年 1B/Note発売
  • 1994年 PC/AT互換機汎用の1B/V1発売
  • 1995年 1B/V2発売
  • 1996年 BrainPad TiPO発売
  • 1996年 1B/V3発売
  • 1998年 B-right/V発売
  • 1999年 超漢字発売(B-right/V R2)
  • 2000年 超漢字2発売(B-right/V R2.5)
  • 2000年 GT書体公開
  • 2001年 超漢字3発売(B-right/V R3)
  • 2001年 T-Engine, T-Kernel 発表
  • 2001年 超漢字4発売(B-right/V R4)
  • 2006年 超漢字V(B-right/V R4.5)

  1. ^ a b 『BTRON2カーネル標準ハンドブック』
  2. ^ a b TRONWARE Vol. 7
  3. ^ a b TRONWARE Vol. 9
  4. ^ 『TRONからの発想』pp. 130-138
  5. ^ 『TRONを創る』pp. 179-192
  6. ^ 「μBTRONバス:機能と応用」(『TRONプロジェクト '89-'90』pp. 109-122)
  7. ^ 「μBTRONバス:設計と音楽データ転送の評価」(『TRONプロジェクト '87-'88』pp. 173-182)
  8. ^ 月刊アスキー11巻6号(1987年6月号)160頁の図には、マルチレコードによりTADデータが実装されているというような説明があるが、現状の仕様書はそのようにはなっていない。
  9. ^ たとえば『TRONプロジェクト '90-'91』pp. 59-64「BTRON1仕様におけるハイパーメディア編集」
  10. ^ TRONWARE Vol. 50 pp. 62-67「FAのニューフェイスBTRON」
  11. ^ インターフェース 1995年1月号, p. 230.
  12. ^ https://web.archive.org/web/20100811085732/http://www.assoc.tron.org/jpn/intro/enkaku.html
  13. ^ CEC沿革
  14. ^ CECは2012年4月より一般財団法人コンピュータ教育推進センター
  15. ^ a b 小林紀興『松下電器の果し状』1章
  16. ^ 当時はLinuxやFreeBSDのようなAT&Tの支配が及ばない、実用的Unix互換環境の登場など、誰も想像し得なかった。
  17. ^ ウェブアーカイブ、トロン協会ウェブサイト「通商問題経緯」
  18. ^ トロン協会「沿革」
  19. ^ https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00215/060300034/
  20. ^ たとえば、中村正三郎『電脳曼陀羅』(1995年版)収録「TRONのいま」の注25に「当時、反TRONだったのが、すでに地位を確立していたNECとMicrosoftだったのは周知の事実」とある
  21. ^ http://cacm.acm.org/magazines/1983/9 表紙は右カラム上部に表示されるが、右側の日本は足元(基礎技術)は低いものの一致団結して「5th GENERATION」(第5世代)と書かれた宝冠に手が届かんばかりである
  22. ^ 大下英治『孫正義 起業の若き獅子』(ISBN 4-06-208718-9)pp. 285-294
  23. ^ http://narapress.jp/ysk/tron/panacal.html


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