1955年のル・マン24時間レース 影響

1955年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 07:44 UTC 版)

影響

モータースポーツの安全性

1955年はモータースポーツ界にとって衝撃的な死亡事故が相次いでおり、5月26日にはF1の2年連続王者アルベルト・アスカリがテスト中に事故死。5月30日にはインディ500で3連覇を目指していたビル・ブコビッチが多重衝突事故で死亡した。

これらの事故によって自動車レースを危険とみなす論調が国際的に広まり、フランスとイタリアでは一時モータースポーツが自粛され、スイスではレース開催を禁止する法案が可決された[注釈 2]F1世界選手権フランスGPドイツGPスイスGPスペインGPの4戦が中止となり、メキシコの公道耐久レース、カレラ・パナメリカーナ・メヒコはイベント自体が打ち切られた。

2年後の1957年には、ル・マンと並ぶ人気イベントだった公道レースのミッレミリアで再び観客を巻き込む死亡事故が起こり、コンストラクターのフェラーリの責任が問われ(その後却下)、ミッレミリアそのものが廃止となった。さらにパワー競争を抑制することを目的に、1958年からスポーツカー世界選手権に排気量制限が導入された。

このように、1955年のル・マンの事故は観客への安全対策とマシンの性能抑制という意識改革をもたらすきっかけとなったが、「レースに死の危険は付き物」という状況はその後も続いた。当時の認識では、事故で潰れた車体に閉じ込められたまま火災に遭うよりも、車外へ放り出された方が助かる見込みがあるという理由から、シートベルトを装着しないのが一般的であった。その後、ジャッキー・スチュワートなどのレーシングドライバーによる啓蒙活動と、サーキットの医療体制の充実、レーサーの装具の難燃性向上、車体側の安全基準の厳格化など、長い時間をかけて継続的な安全性の向上が図られていった。

メルセデス・ベンツの活動休止

メルセデスは1954年から本格的にモータースポーツ活動を再開し、F1と耐久レースで華々しい成果を収めていたが、ダイムラー・ベンツ経営陣はレース部門の予算と人員を市販車開発に集中するため、ル・マンの前に1955年限りでF1から撤退することを表明していた[24]。耐久レースには翌年も参戦する予定で、300SLRクーペタイプの製作と新型エンジンの開発を進めていた。

しかし、選手権最終戦のタルガ・フローリオを制してマニュファクチャラーズタイトルを獲得した10月16日の夜、ノイバウアー監督は全レース活動を休止するという本社の決定を知らされた。休止期間は「数年間」とされていたが、実際にル・マンでの活動を再開するのは30年後、1985年のことであった。この時はプライベートチーム、ザウバーへのエンジン供給の形であったが、1988年より「ザウバー・メルセデス」として公式に復帰している。


注釈

  1. ^ 当時はドライバー交代が義務化されておらず、1949年にはフェラーリのルイジ・キネッティが23時間近く、1950年にはタルボ-ラーゴのルイ・ロジェが23時間以上ひとりで走行して優勝した。1956年以降はドライバーの連続周回制限と走行時間制限が規定された。
  2. ^ 対象は2台以上の車が同時に競争する種目で、ラリーヒルクライムは対象外。2018年には64年ぶりにジュネーブでフォーミュラEのレースが解禁された。

出典

  1. ^ a b c d e f g 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.223「資料1」。
  2. ^ a b 『死のレース 1955年ルマン』p.136。
  3. ^ 『ドキュメント ルマン1955』、p.89。
  4. ^ 『ライフ』1955年6月27日号の記事(参考サイト)
  5. ^ a b c d 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.298-303。
  6. ^ a b c d e f g h i j 『ル・マンの英国車』p.57-59「1955」。
  7. ^ Le Mans Project by Virtual_LM Le Mans Track History 1932-1967(参考サイト)
  8. ^ ダリル・グッドリッチ(日本語翻訳)『フェラーリ 不滅の栄光』(映画)NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン、2017年、該当時間: 14分37秒。 
  9. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.221。
  10. ^ Mike Hawthorn,Challenge Me the Race,London:William Kimber,1958.
  11. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.207。
  12. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.203。
  13. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.209。
  14. ^ 『死のレース 1955年ルマン』pp.161-162。
  15. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.208。
  16. ^ 『ドキュメント ルマン1955』p.156。
  17. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.166。
  18. ^ 『死のレース 1955年ルマン』pp.163-164。
  19. ^ a b 『ファンジオ自伝』pp.185-186。
  20. ^ 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ 1923-1955』p.178。
  21. ^ a b 『メルセデス・ベンツ -RACING HISTORY-』p.240。
  22. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.214。
  23. ^ 『死のレース 1955年ルマン』p.216。
  24. ^ 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ 1923-1955』p.179。
  25. ^ 『ルマン 偉大なる耐久レースの全記録』p.209。
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 『ル・マンの英国車』p.142。





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