野口幸司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/16 14:39 UTC 版)
略歴
高校時代
船橋市立船橋高等学校ではインターハイ2連覇、高校選手権でも準優勝を経験するなど、初期の黄金時代を築く主役として活躍した。高校1年生からレギュラーで出場しており、当時は小川誠一(元名古屋グランパスエイト)、曽我豊明(元水戸ホーリーホック)と野口の3人が市船の将来を託された選手であった。高校2年生のとき高校総体インターハイ(北海道開催)では、初出場初優勝を飾っている。その後、野口が3年生のときも高校総体インターハイでも優勝しており、高校総体2連覇を達成した。特にこの大会では野口は毎試合得点をしており優勝の原動力であった。この時はMFでありゲームも作るが得点もするチームの頭脳であった。
プロ入り後
ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の黄金期を支えたエースストライカー。1994年にJリーグに昇格したベルマーレ平塚の、リーグ戦での初得点者でもある(ヴェルディ川崎戦 1994年3月)[2]。
プレースタイルはワンタッチゴーラータイプで、シュート力、ヘディング、ドリブルなど、特段秀でたものはなかったが、決定力が非常に高く、シュート1本あたりのゴール確率はJリーグトップクラスであった。また、ベルマーレ在籍当時は、ベッチーニョ、アウミールと典型的なドリブル突破からラストパスを送るタイプの選手が在籍したためにあまり目立たなかったが、ジャパンフットボールリーグ当時はウインガーとしてプレーするなど、サイドからのパスにも非凡な面を持っていた。
1995年の元旦、第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝では2ゴールを挙げてチームを優勝に導いた。同年の5月3日、サントリーシリーズ第13節鹿島アントラーズ戦でJリーグ1試合個人最多得点記録となる5得点を記録。この試合は新人であった中田英寿がJリーグ初得点を記録した試合であり、ベルマーレが7-0で勝利した。中田は後半に野口の得点もアシストしている。この記録は湘南ベルマーレとなって以降を含め、最多得点差試合である。 この得点力が認められ、加茂周監督により日本代表に召集されるが、1試合の出場にとどまり、以降召集されることはなかった。
引退後
星稜高校、実践学園高校でコーチを務め、テレビ東京やWOWOWのサッカー解説としても活動。2015年からはアローレ八王子の監督兼アドバイザーに就任[3]。2022年9月1日、双方合意のもと8月31日付で八王子の監督を退任すると発表された[4]。
2023年4月3日に清水エスパルスのトップチームコーチに就任した[5]。
- ^ a b “野口 幸司”. サッカー日本代表データベース
- ^ “J草創期のレジェンドがしのぎを削った高校選手権【86年~89年編】 (2/2)”. サッカーマガジンWEB. 2022年1月10日閲覧。
- ^ 野口幸司氏 来季監督就任のお知らせ (PDF) アローレ八王子公式サイト 2014年12月2日付プレスリリース
- ^ “野口幸司監督 退任のお知らせ”. アローレ八王子公式WEBサイト (2022年9月1日). 2023年4月3日閲覧。
- ^ “野口 幸司 コーチ就任のお知らせ”. 清水エスパルス公式WEBサイト. 2023年4月3日閲覧。
固有名詞の分類
日本のサッカー選手 |
金田喜稔 元木数馬 野口幸司 柴暢彦 吉川健太 |
サッカー日本代表選手 |
名取篤 金田喜稔 野口幸司 田中孝司 福原黎三 |
名古屋グランパスエイトの選手 |
杉本恵太 秋葉竜児 野口幸司 ドラギシャ・ビニッチ 平岡直起 |
大宮アルディージャの選手 |
金川幸司 エドゥアルド・フランシスコ・ダ・シウヴァ・ネト 野口幸司 北野貴之 眞中幹夫 |
川崎フロンターレの選手 |
ジウベルト・カルロス・ナシメント 高田栄二 野口幸司 西澤淳二 岡山一成 |
ベルマーレ平塚の選手 |
反町康治 信藤健仁 野口幸司 田坂和昭 宮澤浩 |
藤和不動産サッカー部の選手 |
手塚聡 信藤健仁 野口幸司 久保山雅彦 石井義信 |
- 野口幸司のページへのリンク