近思録崩れ 主な処分者

近思録崩れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 10:04 UTC 版)

主な処分者

  • 島津斉宣 - 隠居
  • 樺山久言 - 蟄居閉門(後に内命により切腹
  • 秩父季保 - 喜界島に家族とともに遠島、通称名の国名剥奪(親類に季保の処置をほのめかす内命が下り、季保は切腹した。季保の家屋敷・家来・家財・切米は召し上げられたが、遺族には構いなし。次男が秩父家の跡を継いだが、親族の家来(武家身分の使用人)にされた[1]
  • 伊地知季安(「薩藩旧記雑録」編集者) - 喜界島に流刑
  • 清水源左衛門 - 役儀罷免、謹慎。(謹慎中に切腹したが、親類による殺害であるという説もある)。墓は現在、鹿児島市南林寺由緒墓にある。
  • 黒葛原周右衛門[注釈 6] - 高隅郷の寺に蟄居。
  • 奈良原助左衛門[注釈 7] - 喜界島遠島。
  • 島津彦大夫[注釈 8] - 日向国馬関田郷の威徳院に蟄居。
  • 二之宮藤太左衛門(薩摩藩京都留守居、御領百引地頭、風早中納言公雄卿の門下で和歌を学ぶ。)「輝北町郷土誌」輝北町郷土誌編纂委員会 - 遠島の後、垂水蟄居。

また、今後の先例にされないために[要出典]この時の藩政に関する書類の多くが処分されたため、現在でも近思録崩れの経緯や詳細については不明な部分が多い。

その後

重豪もこの事件で財政にようやく目を向けるようになったが、その時に採った政策は「大坂の大名貸しに直接徳政を命ずる」という権勢に任せたとんでもない物であった。その後、家老の町田監物の情報開示が災いして[2]鹿児島藩には金を貸す大名貸しはいなくなり、市中の高利貸しから金を借りる事態に陥り、かえって天文学的な借財を作る原因となった。これは重豪晩年に調所広郷を家老に抜擢するまで根本的には「改善」されないままであった。

一方、国元下級藩士の間で「近思録党」は「藩に殉じた悲劇の士」として語られ、西郷隆盛大久保利通など多くの藩士が「近思録」を読み、結党するようになった[注釈 9]。皮肉なことにこれらの藩士が後に重豪が寵愛した曾孫島津斉彬の擁立に活躍するのである。

脚注


注釈

  1. ^ このときにやってきた商人の一人が後に山形屋を創立する。
  2. ^ 但し、薩摩藩城下士の間では江田氏や二階堂氏といった郷士が藩主生母一族として出世して側用人や家老になることに大変不満を持っていたことが久保之英の『見聞秘記』で明らかであり、郷士どころか元大坂藩邸足軽の倅が定府家老になった状態にも反発が強かったと予想される点に留意したい。
  3. ^ 山本正誼の教授就任に失望した古学派の荻生徂徠学の門人川上嘉善らが藩政批判を展開し、弾圧された事件。
  4. ^ 黒田清綱の祖父、黒田清輝曾祖父。
  5. ^ 県史料に同時掲載の「文化朋党一条」は山本のものでなく伊地知氏作である。また、「文化朋党実録」での山本の一人称が『余』でなく『山本傳蔵』なので「文化朋党実録」自体も写本の可能性が高い。
  6. ^ 薬丸兼慶の実兄の子孫。
  7. ^ 奈良原質の子孫で奈良原喜左衛門奈良原繁先祖。
  8. ^ 小松清猷小松千賀兄妹の母方先祖。
  9. ^ なお、西郷の母方祖父の椎原孝助や大久保利通の母方祖父の皆吉鳳徳が近思録派により失職していたり、山本権兵衛の大叔父の山本宇源太が納戸奉行から鎗奉行に左遷されている。

出典

  1. ^ 『三百藩家臣人名事典 7』(新人物往来社)参照
  2. ^ 吉川弘文館「島津重豪」、「調所広郷」(ともに芳即正著)


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