側室・堤氏の東上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 05:06 UTC 版)
文化4年(1807年)、20年以上鹿児島在住であった斉宣実母・堤氏(お千万の方)を江戸に呼ぶよう重豪は命令した。理由は「市田氏(お登勢の方)が死去し、重豪が寂しくしているから」というものであったが、市田氏は享和元年(1801年)に死去しており、寵愛した側室の死後6年も経ってから20年以上別居していた女性を「寂しいから」という理由で呼び寄せるのは不可解である。実情は、上記のような斉宣の強気の姿勢に恐れをなした市田盛常が、斉宣が母・堤氏を通して国元の事情を把握するのを妨害する目的で、重豪に願って呼び出したものと思われる。しかし、このことは斉宣を中心として結束した藩士(近思録党)に危機感を抱かせ、更に急進的に政策を進めるきっかけを作ったと考えられる。
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