諸葛亮南征
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評価
蜀漢は、南中の統治を確立し、南中の閉塞状態を打破した。また、各少数民族と漢民族との関係が強化されたことは、南中の発展にとって、有意義であった。[要出典]
唐代末から宋代にかけて李靖の事績を知る者の手で編纂されたと考えられる『李衛公問対』において、李靖は諸葛亮の南征について「諸葛亮が7度にわたって孟獲を捕獲したことは、それ以外に方法はなく、これによって戦火が已んだのである」と評したことが記述されている。
民間芸術
三国志演義
小説『三国志演義』では、第87回「征南寇丞相大興師、抗天兵蛮王初受執」から第90回「駆巨獣六破蛮兵、焼藤甲七擒孟獲」までの間において、この戦いが描写されている。
しかし、個性的な人物や故事の中には、史実とは似ても似つかぬ創作と思われるものがある。例えば、孟獲は異民族の王に奉じられていること、雍闓・朱褒・高定の3人は孟獲の部下とされていること、鄂煥・祝融夫人・孟優・木鹿大王等の南中の多数の人々が登場することなどである。
このほか、趙雲・魏延の参戦は、正史『三国志』には記載されていない。
七縦七擒
『三国志』の本文には記録がない。「七縦七擒」の語は『漢晋春秋』と『華陽国志』巻4「南中志」に初めて登場し、『三国志』「諸葛亮伝」裴松之注でも『漢晋春秋』から簡単な記載が引用されている。また裴松之注及び『資治通鑑』には「七擒孟獲」の記載がある。
伝説
北宋の高承の『事物紀原』によれば、諸葛亮の南征時、風が強くなって渡河できないことがあり、孟獲は、猛り狂った神のたたりであるとして、人頭と動物を生贄にしなければ、風を穏やかにすることはできないと述べた。しかし、諸葛亮は、人頭を用いるのが極めて残忍であるとして、小麦粉を人頭の形に丸め、中に牛肉や羊肉を入れたものを作成し、饅頭と名付けたとされる(一説には、饅頭は張飛の入蜀時に発明されたともされる)。
- ^ 『三国志』蜀志・後主伝
- ^ 『華陽国志』南中志:益州夷復不従闓,闓使建寧孟獲説夷叟曰:「官欲得烏狗三百頭,膺前尽黒,蟎脳三斗,斵木構三丈者三千枚,汝能得不?」夷以為然,皆従闓。斵木堅剛,性委曲,高不至二丈,故獲以欺夷。
- ^ 三國志 蜀書九 董劉馬陳董呂傳 (中国語), 三國志/卷39#馬良, ウィキソースより閲覧。 襄陽記に引く - 《襄陽記》曰:建興三年,亮征南中,謖送之數十里。亮曰:「雖共謀之歷年,今可更惠良規。」謖對曰:「南中恃其險遠,不服久矣,雖今日破之,明日復反耳。今公方傾國北伐以事強賊。彼知官勢內虛,其叛亦速。若殄盡遺類以除後患,既非仁者之情,且又不可倉卒也。夫用兵之道,攻心為上,攻城為下,心戰為上,兵戰為下,原公服其心而已。」亮納其策,赦孟獲以服南方。故終亮之世,南方不敢復反。
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