船本幸路 船本幸路の概要

船本幸路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/18 14:54 UTC 版)

船本 幸路
名前
カタカナ フナモト コウジ
ラテン文字 FUNAMOTO Koji
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1942-08-12) 1942年8月12日(80歳)
出身地 広島県広島市
身長 177cm
選手情報
ポジション GK
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1961-1975 東洋工業
代表歴
1966-1975 日本 19 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

来歴

広大付属高校2年の時、ゴールキーパーとして桑田隆幸野村尊敬、同級の小城得達桑原楽之溝手顕正らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。

高校を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団。同チームの監督となった下村幸男の後を受け正ゴールキーパーとなる。石井義信小沢通宏今西和男丹羽洋介桑原弘之大野毅川野淳次国枝強らとゴールを守り、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇と3度の天皇杯制覇に貢献した。

また1966年から引退直前の1975年まで長きに渡り日本代表にも選ばれ、国際Aマッチ19試合を含む合計50試合の代表戦出場試合がある。しかし横山謙三に次ぐ控えキーパーだったため、重要な試合の出場は少なく、1971年に行われたミュンヘンオリンピック予選などでも出番はなかった。

東洋工業ではJSL結成から1975年まで延べ11年間、166の全試合に出場、東洋工業のゴールを守り抜き同年引退。その後同チームコーチなどを経て、1979年の下村幸男監督時代の日本代表でGKコーチとして活躍。1981年からマツダサッカースクールの講師となり、広島県内の中高生の指導を長く続け、家本政明上村健一若井研治などを育てた。社業もマツダの部品業務部に長く勤めた。

会社を定年退職した後は、2007年までJリーグマッチコミッショナー、2008年以降は日本フットボールリーグのマッチコミッショナーを務めている。

所属クラブ

指導歴

  • 1975年 - 1980年 : 東洋工業GKコーチ
  • 1979年 - 1980年 : 日本代表GKコーチ
  • 1981年 - ?年 : マツダサッカースクール講師

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1965 東洋 1 JSL 14 0 -
1966 14 0 -
1967 14 0 -
1968 14 0 -
1969 14 0 -
1970 14 0 -
1971 14 0 - - 14 0
1972 JSL1部 14 0 -
1973 18 0
1974 18 0 -
1975 18 0 -
通算 日本 JSL1部 166 0
総通算 166 0

タイトル

  • JSLベスト11 : 1970年



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