纒向古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/07 05:42 UTC 版)
主な古墳
本古墳群内の前方後円墳には、次の6基がある。
- 纒向石塚古墳
- 桜井市太田字石塚に所在する。周濠の一部が調査され、周囲に幅20メートルあまりの周濠をもつことが確認された。周濠内から鶏形木製品2点、弧文円板1点、大量の鋤・鍬のほか纒向1類の完形土器が出土している。石塚古墳においては、周濠の最下層から出土したヒノキの板材の残存最外年輪の暦年は炭素14年代測定法によって西暦177年との測定結果が出ている。しかし、年輪年代学の光谷拓実は、残存の辺材部の平均年代幅をもとに推計し、「その伐採年はどうみても200年を下ることはない」と結論づけている[4][5]。
- 纒向矢塚古墳
- 桜井市東田町字矢塚に所在する。埋葬部は未調査であるが、墳頭部より板石が露出しているので竪穴式石室・箱式石棺が考えられる。出土遺物は、埴輪、纒向3類の須恵器、瓦器であるが、いずれも遺構にともなうものではない。
- 纒向勝山古墳
- 桜井市東田町字勝山に所在する。上述の石塚古墳・矢塚古墳と本古墳を結ぶとほぼ正三角形の配置となる。葺石をともなうが埴輪は検出されていない。埋葬部は未調査のため詳細不明であるが、主として周濠より遺物が出土している。主なものとしては、木製の刀剣把手、団扇、槽等の祭祀具、U字形木製品、布留0式期の土師器がある。
- 東田大塚古墳
- 桜井市東田字大塚に所在する。葺石をともなうが埴輪は検出されていない。埋葬部は未調査であり、不明な点が多い。出土遺物には、土師器(布留0式)、木製品があり、周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした中部瀬戸内系土器棺による甕棺の埋納痕跡を確認している。なお、試掘調査により前方部に盛土が残っていることが確認され、2007年(平成19年)、桜井市教育委員会は全長がこれまでの推測より14メートル長く110メートル以上におよぶ旨発表した。
- ホケノ山古墳
- 桜井市大字箸中字ホケノ山に所在し、三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側に位置する。葺石をともなう。1999年(平成11年)9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって発掘調査が実施された。墳頂部中央から「石囲い木槨」を検出した。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートルの石室状の施設で、その内部にコウヤマキ製の約5メートルの刳抜式(くりぬきしき)木棺(割竹形木棺もしくは舟形木棺を納めた大規模な木槨である。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。水銀朱で覆われていたと思われる。土器は、庄内式の二重口縁壺が20体出土している。
- 副葬品や出土遺物の詳細については「ホケノ山古墳」を参照
- 箸墓古墳(箸中山古墳)
- 詳細は「箸墓古墳」を参照
- 桜井市箸中に所在する前方後円墳で、上の5基とは隔絶した規模と整った外形をもち、埴輪をともなう。被葬者として宮内庁より倭迹迹日百襲姫命が治定されている。周濠内上層の堆積土層中から布留1式土器とともに4世紀初めのものと推定される木製輪鐙が出土しているが、桜井市纒向学研究センターによれば、これらの遺物は古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられている[6]。
なお、箸墓古墳を定型化古墳のさきがけとみなし、それ以外の5基の前方後円墳を「前方後円形墳丘墓」とみなす見解もある[7]。いっぽう、寺沢薫は石塚以下の5基を「纒向型前方後円墳」として古墳時代草創期に位置づけている[8]。
固有名詞の分類
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