縁切寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/01 01:07 UTC 版)
縁切寺と千姫
幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺の2つだが、この2つが幕府公認になったことは千姫に由来する。満徳寺は千姫が入寺し(実際には腰元が身代わりで入寺)離婚後本多家に再婚した事に由来し、東慶寺は豊臣秀頼の娘(後の東慶寺住持の天秀尼)を千姫が養女として命を助け、この養女が千姫の後ろ盾もあり義理の曽祖父になる徳川家康に頼み込んで東慶寺の縁切寺としての特権を守ったとされる。この2つの寺の特権は千姫-家康に認められたものであり、後年の江戸幕府もこれを認めざるを得なかった[4][5]。
江戸時代以前の縁切寺
鎌倉時代後期から室町時代・戦国時代にかけての縁切寺は、東慶寺(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内(北鎌倉))と満徳寺だけというわけではなかった。世俗から切り離された存在(アジール)として、寺院は庇護を求める人々を保護してきた。寺に駆込んだ妻を寺院が保護すれば夫は容易には妻を取り戻せない。ことに男子禁制の尼寺ならばなおさらであり、夫の手の届かないところに数年いれば、当時の観念としてもはや夫婦ではないと認められた。しかし、豊臣から徳川の時代になると寺院の治外法権的な特権は廃止され、一般の寺に駆込んでも夫に引き渡される事も起きるようになり、幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺に限定されていくのである[6][7]。
江戸時代の縁切寺以外の駆け込み
幕府公認の縁切寺が東慶寺と満徳寺に限定されたことは、離縁を望む妻側の救済手段がそれだけに限定されたことを意味しない。幕府権力を最終的なよりどころとしなくても、武家・神職・山伏などの社会的権威のある人々の屋敷への縁切り駆け込みが多数あり、ほとんどは速やかに離婚を成立させることができた。縁切り寺はあくまでも最終手段であった[8]。
当時庶民とりわけ農民の家族においては、妻も労働力のゆえにその地位は低くなく、離婚も再婚も容易であり[9]、また夫の恣意による不実の専断離婚は認められず、訴訟によって妻は復縁・離婚を請求することもできたのであり、「夫のみが一方的に三行半を突きつけて追い出し離婚を強制することができ、妻は縁切り寺に駆け込む以外の救済手段を持たなかった」というのは、後世の誤解であると論じられている[10]。江戸期の離婚率の高さは、夫専権離婚ではなく、妻による「飛び出し離婚」が多かったためと考えられている[11]。
例えば、上野国小幡藩では、妻と離婚したいが告げられず(いわゆる、かかあ天下のため)、藩の陣屋や町役人の所に縁切り駆け込みし、離婚を訴える事例が2例確認できる[12]。また熊本藩にも夫の縁切り駆け込みをにおわす文書が確認されている(前同 p.195)。
また、同じく上野国(群馬県)の例だが、交代寄合の旗本で、新田氏の子孫である岩松氏の屋敷にも、駆け込みがあったことが確認されている。ただしあくまで非公式な手続きであり、正式に離婚斡旋を始めたのは、明治期に入った当主の新田俊純男爵からである。岩松家は歴史が古く格式が高いため権威があり、しかし120石と少禄であったので屋敷は当然それほど立派ではなく、つまり庶民が駆け込み易かったとも推測される。さらに岩松家は護符を売るなどの呪術的な商いでも知られていたため、信仰心的な権威もあった。さらに、屋敷はいわゆる縁切寺の満徳寺の近隣に存在していた。
芸術作品における扱い
- グレープが1975年に発売したアルバム『コミュニケーション』に、鎌倉の東慶寺を題材にした「縁切寺」が収録されている。(作詞・作曲・編曲:さだまさし) 1976年にバンバンがこの楽曲をカバーする。
- 縁切寺を題材とした歌を演歌歌手の若山かずさが2006年にリリースしている(タイトル:縁切寺/作詞:池田充男/作曲:叶弦大/編曲:南郷達也)。
- 縁切寺の東慶寺を題材にした2015年の映画『駆込み女と駆出し男』がある。
- ^ 五十嵐富夫『駆込寺』塙書房、1989年、p.160
- ^ 井上禅定1955 p.141
- ^ 高木侃『三くだり半と縁切寺 江戸の離婚を読みなおす』 講談社新書、1992年、p.166
- ^ 井上禅定 『東慶寺と駆込女』 有隣堂、1995年、pp.19-22
- ^ 佐藤孝之『駆込寺と村社会』吉川弘文館、2006年、p.148
- ^ 佐藤孝之『駆込寺と村社会』吉川弘文館、2006年,pp.1-5
- ^ 高木侃『泣いて笑って三くだり半』教育出版、2001年、p.148
- ^ 高木侃『三行半と縁切り寺 江戸の離婚を読み直す』吉川弘文館、2014年、p172以下,p.201
- ^ 高木侃『三行半と縁切り寺 江戸の離婚を読み直す』吉川弘文館、2014年、p.37以下
- ^ 高木侃『三行半と縁切り寺 江戸の離婚を読み直す』吉川弘文館、2014年、p.36.p.201
- ^ 『群馬県史 通史編6 近世3 生活・文化』 p.194
- ^ .『群馬県史 通史編6 近世3 生活・文化』 p.195
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