糟屋武則
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脚注
参考文献
- 加古川市 『加古川市誌』 第1巻、加古川市、1953年6月15日、219-221頁。
- 糟谷正勝「三、加須屋内膳正」 『播磨糟谷家の系譜』みるめ書房、1993年6月30日、44-69頁。
- 「藤原氏良方流 糟屋」 『寛政重脩諸家譜. 第4輯』 747巻、國民圖書、1923年5月31日、1030頁 。2013年11月26日閲覧。
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、59・69頁。
- 木村礎; 藤野保; 村上直 『藩史大事典 第5巻 近畿編』雄山閣、1989年、529-530頁。
- 多田暢久「賤ヶ岳七本槍の加古川城主・加須屋武則」 『家康と播磨の藩主』神戸新聞総合出版センター、2017年、25-48頁。
関連項目
関連作品
- 小説
- 徳永真一郎「糟屋助右衛門武則」 『賤ヶ岳七本槍 秀吉を支えた勇将たちの生涯』PHP研究所、1992年。ISBN 978-4569564739。
外部リンク
注釈
- ^ 宗孝は、武則の子であるという説がある。
- ^ 与十郎。秀吉馬廻。
- ^ a b 僧。
- ^ 弥次郎。修理亮、但馬守。駿河今川氏家臣。
- ^ 署名では晩年まで真雄が用いられている。
- ^ 戦国時代の署名には「加須屋」が用いられており、「糟屋」と改めたのは江戸時代の子孫。
- ^ 賤ヶ岳の戦いで武則が討ち取ったのは拝郷五左衛門であるとの説もある。ただし、一般には、拝郷を討ち取ったとされるのは福島正則で、片桐且元が討ち取ったとする説もある[5]。
- ^ 『川角太閤記』の記述。『太閤記』や『大かうさまくんきのうち』では木下吉隆の屋敷となっている。
- ^ なお片桐且元も同日に同じ理由で加増を受けている[18]。
- ^ この時点での武則の領知には播磨の他に大和国宇陀郡本郷村・追間村も飛び領として含まれていた[19]。
- ^ 『加古川市誌』では関ヶ原の本戦には参戦せず大坂に滞在したと記述されている。
- ^ 『笠岡市史』に慶長7年(1602年)から元和元年(1615年)の間、旗本糟谷内膳とその子息八兵衛が備中国小田郡関戸村の領主となっていたという記述がある[21]。
- ^ 前述のように関連は疑わしいが、系図上はこの系譜が江戸時代も存続している。
- ^ 現地案内板より[24]。
- ^ 権左衛門は関ヶ原合戦後に黒田一成の庇護を受け、一成の本姓である加藤姓を名乗っていたという[27]。
出典
- ^ 糟谷正勝 1993, p. 60.
- ^ 高柳 & 松平 1981, p.69
- ^ 大日本人名辞書刊行会 1923, p.1030
- ^ https://www.rekishijin.com/13261
- ^ 七本槍の戦功
- ^ 糟谷正勝 1993, pp. 50–51.
- ^ 空想のふくおか《第4回》幻の博多城 天正15(1587)年の空想
- ^ 太閤蔵入地(名島)
- ^ 加古川市 1953, pp. 219–220.
- ^ 木村礎, 藤野保 & 村上直 1989, p.529
- ^ 多田暢久 2017, p. 33.
- ^ 多田暢久 2017, p. 34.
- ^ 中野等 『文禄・慶長の役』、吉川弘文館、2008年、pp. 79-80.
- ^ 高柳 & 松平 1981, p.59
- ^ 中野等 2008, pp. 140-142.
- ^ 多田暢久 2017, pp. 33–34.
- ^ 『三木市史』, p. 95.
- ^ a b 山本博文、曽根勇二、堀新編 『豊臣政権の正体』、柏書房、2014年、p. 171.
- ^ a b 木村礎, 藤野保 & 村上直 1989, p.530
- ^ 秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚如帳面写之
- ^ 関戸廃寺跡
- ^ 糟谷正勝 1993, p. 299.
- ^ a b 加古川市 1953, pp. 220–221.
- ^ [1]
- ^ 内牧地域の名所旧跡
- ^ 長浜市長浜城歴史博物館 『片桐且元:豊臣家の命運を背負った武将』、サンライズ出版、2015年、p. 18.
- ^ a b 本山一城 『黒田官兵衛と二十四騎』、宮帯出版社、2014年、p. 249.
- ^ 第三章 家臣団の成立: 近世加賀藩と富山藩について
- ^ 企画展「賤ヶ岳合戦と七本槍」
- ^ 多田暢久 2017, p. 26.
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固有名詞の分類
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