清楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 04:13 UTC 版)
歴史
清楽の伝来は享保年間(1716年-1735年)である。清の中国支配が始まり、清国との貿易で長崎には多くの清国商人が渡来し、彼らが清国の戯曲や民謡といった民間音楽を伝えた。唐人屋敷に出入りを許された唐通事(中国語通訳)、地下役人や奉行所役人、さらに丸山の遊女等を介して普及した。幕末までには、薩摩や琉球などを除く全国各地に広まった。また江戸や大坂を中心に、清楽の歌詞と楽譜(工尺譜)を書いた清楽譜も盛んに刊行された。現存最古の清楽譜は、天保3年(1831)ごろ刊行された亀齢軒斗遠(葛生斗遠)編『花月琴譜』である。
明清楽奏者の家元としては、平井連山(女性。明治19年5月に88歳で没)などが有名であった。坂本龍馬とその妻の楢崎龍も、清楽の月琴の名手であった。
清楽は江戸から明治にかけて大人気を博したが、日清戦争を境に急速に衰えた。日本の大衆音楽に残した影響は極めて大きく、江戸から明治にかけて流行した「かんかんのう(看々踊り)」や、明治の自由民権の壮士たちが月琴を弾きながら唱った「法界節(ほうかいぶし)」や「演歌」も、清楽から発展したものである。また清楽のメロディーに乗せたさまざまな替え歌は、清楽そのものが衰退したあとも、昭和の初め頃まで歌い継がれていた。
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特徴
同じ中国伝来の音楽でも、明楽は、宮廷音楽的、雅楽的要素が強かった。これに対して清楽は、俗曲の色彩が強く、歌詞(中国語)の内容も市井に受け入れやすかった。清楽の歌詞は中国語で、江戸時代の日本人は、南方の中国語の発音をカタカナで写し(当時、これを「唐音」と言った)、そのまま唱った。現代の日本人が、ウクレレやギターを弾きつつ英語の歌を唄うように、江戸から明治にかけての日本人も、清楽の楽器(主として月琴)をかなでつつ唐音で中国語の歌詞を唄ったのである。
江戸時代の音楽文化は、概して、身分制や家元制に縛られた窮屈なものだった。庶民の楽器であった三味線を武士が弾いたり、虚無僧の法器とされた尺八を百姓町人が吹くことは、江戸時代には許されなかった。しかし中国伝来の現代音楽(当時として)であった清楽は、例外的に、江戸時代の身分制度から自由であった。町人も武士も、男も女も、身分の上下や性別を超えて、いっしょになって合奏や合唱を楽しむことができた。
曲目
清楽の代表的な曲には、「算命曲」「九連環(右上の写真の楽譜参照)」「茉莉花」「四季」「紗窓」「売脚魚」「哈哈調」「満江紅」「将軍令」などがある。これらの曲の多くは、現在の中国でも古典的な軽音楽としての生命を保っている(ただし歌詞の字句や編曲などは、日本の清楽のものとかなり違うことが多い)。
清楽と同じ種類の言葉
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