樺太1945年夏 氷雪の門
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関連項目
- 『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』 - 真岡郵便電信局事件を題材としたテレビドラマ、2008年放送
脚注
参考文献
- 『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(金子俊男、1972年)
- 国弘威雄「戦争映画の難しさ」(のち国弘威雄著『私のシナリオ体験-技法と実践』1977年、映人社に加筆して収録)(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
- 国弘威雄脚本「樺太一九四五年夏 氷雪の門」(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
- 座談会「映画と政治の狭間で問われる表現の自由」(『シナリオ』1974年6月号、シナリオ作家協会)
- AVジャーナル1973年11月号、1974年7月号、1974年8月号
- 『日本映画監督協会の五〇年』(柿田清二、1992年)
- 『死なないで!-一九四五年真岡郵便局「九人の乙女」』(川嶋康男文、大宮健嗣絵、1995年)ISBN 9784540950247
- 『女たちの太平洋戦争 北の戦場樺太で戦った乙女たちの生と死』(谷川美津枝、1995年)ISBN 9784769807308
- 『九人の乙女一瞬の夏-「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決』(1989年刊『「九人の乙女」はなぜ死んだか』の増補)(川嶋康男、2003年)ISBN 4877990127
- 『彼女たちは、なぜ、死をえらんだのか?ーー敗戦直後の樺太ソ連軍侵攻と女性たちの集団自決』(2部構成で、第1部 太平炭鉱病院看護婦集団自決 第2部 真岡郵便局電話交換手集団自決を描く)(川嶋康男、2022年)ISBN 978-4906822379
外部リンク
注釈
- ^ 九州には福岡、久留米、熊本等を拠点に、複数の師団が配備されていた。大日本帝国陸軍師団一覧や師団#日本陸軍を参照。
- ^ 樺太看護婦集団自決事件。映画では描写されないが、多数の生存者もいる。
- ^ この大半は独ソ戦に参加した部隊で、タタール人、ユダヤ人、ギリヤーク人、それにソ連市民でもシベリア地方で生まれ育ったロシア人が多かったと原作では言及されている。
- ^ この描写は脚本決定稿にはない。見苦しくないようにとのたしなみであろうが、原作には、9人のうち1人が「辱めを受けないようにモンペを二枚重ねて穿き、迅速な行動が取れるよう靴を紐で縛っていた」という肉親の証言がある。
- ^ 史実の第88師団長は峯木十一郎中将。
- ^ 史実の第88師団参謀長は鈴木康大佐。
- ^ 史実の歩兵第25連隊長は山沢饒大佐。
- ^ 当時、同社は樺太各地に工場を有した。
- ^ ただし、業界誌の記事だけで断定するのは誤りである。『さくら盃・義兄弟』『さくら盃・仁義』『夜の掟』『関東義兄弟』の4本はニューセンチェリーの製作、『喜劇 女もつらいわ』『あしたのジョー』『暁の挑戦』の3本は新国劇映画の製作であり、それに続く『夜の最前線・東京(秘)地帯』は日活の製作、『海軍特別年少兵』は東宝映画の製作である。
- ^ 1980年に出版された小説『氷雪の門』(松山善三著)は、このときの自作脚本をベースにしたものである。
- ^ 逆に「戦禍の中を局に駆けつけてモルヒネ自殺された方」もいて、この女性は「九人の乙女」のうちに数えられている。
- ^ 原作本では「交換室から生還した交換手」は1人とされているが、その後の川嶋康男、谷川美津枝らの調査では他に2人の交換手が生還しているとされている。国弘がこの2人の存在を把握していたか、他の外出者と混同していたかは不詳。
- ^ 守田は映画『喜劇 女もつらいわ』『あしたのジョー』『夜の最前線・東京(秘)地帯』を望月と共に製作している。
- ^ 望月は「一流の建設会社、乳酸飲料会社の社長さん、郵政省、電電公社まで製作や前売り券で協力してくれています」と言っていた。北海道新聞1973年4月28日夕刊
- ^ 陸上自衛隊富士教導団戦車教導隊所属のM41戦車及び機甲教育隊所属のM24戦車が出演した。いずれも米国製。このソ連戦車役のM41及びM24戦車はポスターにもそのまま描かれている。
- ^ 文部省選定・優秀映画鑑賞会推薦・青少年映画審議会推選・全日本教育父母会議推薦・日本PTA全国協議会特別推薦
- ^ のちソ連映画委員会副議長(映画省副大臣)。日本では『デルス・ウザーラ』『甦れ魔女』『オーロラの下で』の製作者として知られる。
- ^ シゾフにも「東宝配給」と誤って伝わっていたとおぼしい。
- ^ 営業本部の誤記であろう。
- ^ ふつう「映画省」と邦訳される。
- ^ ここでいう「ソ連側」の定義は曖昧で、ソ連外務省レベルなのか映画委員会もしくはモスフィルム・レベルなのか判然としない。
- ^ ここでいう「ソ連本国」の定義も曖昧である。
- ^ 北海道新聞の映画案内広告による。
- ^ 当時、北海道には旧樺太島民が多く住んでいた。また三池の選挙区は佐賀県全県区である。
- ^ 北海道新聞1975年9月13日朝刊によれば、『氷雪の門』製作にあたって同役員が「SOSをいって来た」ので三池はJMPに七千万円融資したという。JMP設立時の三池の出資金一億円とは別途だが、融資が行なわれた正確な時期は記事には記されていない。
- ^ 望月は作品完成後も「100万枚の前売券をわれわれの手で売りさばかなければペイしない」としている。AVジャーナル1973年11月号
- ^ 事件発覚当初、三池や他の財界人が疑われていた時期もあるが、この役員の工作により嫌疑を転嫁されたものと判明している。ただし、バス会社の他の役員の中には、同役員との共謀の嫌疑を晴らせず、有罪判決を受けた者もいる。
- ^ 毎日新聞1975年9月12日朝刊では、三池は「その会社はいまはダメになっている」とコメントしている。
- ^ 『私のシナリオ体験』には「望月さんは不思議な人で、いったいどこからお金を工面して来るのか分からないようなところがあり」という記述がある。
出典
- ^ a b c d e 「VM業界情報 『突然現れた望月利雄』」『月刊ビデオ&ミュージック』1973年5、6月号、東京映音、31頁。
- ^ a b c AVジャーナル1973年11月号
- ^ 『シナリオ』1973年8月号。「九人の方々の死の意味合い、事実過程、毒物入手の経路等々」でも種々の説があることにも国弘は触れている。
- ^ 報知新聞1974年3月9日
- ^ a b c 読売新聞昭和49年3月17日(日)18面記事「東宝、突然の配給中止 ソ連に遠慮?圧力?」
- ^ a b c 「映画 北の舞台」(昭和55年発行 朝日新聞北海道報道部編)
- ^ 「キネマ旬報」74年4月上旬号 「邦画・洋画番組予定表 3/20〜4/9」
- ^ ディリースポーツ1974年3月14日。「東宝とは契約をまだ交わしてなかったので、法的手段も取れない」とする守田のコメントがある。
- ^ AVジャーナル1974年8月号
- ^ a b c d 「東映『氷雪の門』配給決定」『映画時報』1974年7月号、映画時報社、19頁。
- ^ a b ソ連政府の圧力により公開中止!?日本人少女たちの悲劇を描いた幻の映画、36年ぶりに公開 ハリウッドチャンネル 2010年6月1日
- ^ 北海道新聞1975年9月9日朝刊~17日朝刊、10月17日朝刊
- ^ 朝日新聞1975年11月18日夕刊
- ^ 読売新聞1975年9月11日朝刊、13日朝刊
- ^ 毎日新聞1975年9月12日朝刊、13日朝刊
- ^ サンケイ新聞1975年9月11日朝刊
- ^ 第076回国会 参議院運輸委員会 第4号
- ^ 北海道新聞1984年4月13日朝刊
- ^ 「週刊民社」昭和53年7月14日号
- ^ 株式会社 新城卓事務所内 映画『氷雪の門』上映委員会
- ^ イメージ等
- ^ Media Playerによる視聴提供
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