梁勇基 梁勇基の概要

梁勇基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 03:36 UTC 版)

梁 勇基
名前
愛称 リャン
カタカナ リャン ヨンギ
ラテン文字 RYANG Yong Gi
基本情報
国籍 北朝鮮
生年月日 (1982-01-07) 1982年1月7日(42歳)
出身地 日本大阪府泉北郡忠岡町
身長 173cm
体重 72kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
2000-2003 阪南大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2004-2019 ベガルタ仙台 522 (76)
2020-2021 サガン鳥栖 29 (0)
2022-2023 ベガルタ仙台 15 (0)
通算 566 (76)
代表歴
2008-2017 朝鮮民主主義人民共和国 24 (7)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年12月18日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
梁勇基
各種表記
チョソングル 량용기
漢字 梁勇基
発音: リャン・ヨンギ
日本語読み: りょう ゆうき
英語表記: RYANG Yong Gi
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来歴

高卒でのJリーグ入りを目指したが外国籍枠の制限によって断念。「外国籍扱いしない選手」(いわゆる「在日枠」)選手としての認定を受けるために日本の大学への進学を決め[2]、2000年に阪南大学へ進学して、サッカー部に所属した。

大学での活躍が認められ、ジェフユナイテッド市原への内定が見込まれていたが、市原は在日枠選手として金位漫を登録していたため破談[3][4]。その後、2004年2月に川崎フロンターレのキャンプに参加したものの、ここでも契約には至らなかった[4]。Jリーグを諦めて韓国Kリーグ入りを目指そうと渡航及び国籍変更手続きの準備をしていたとき[3]、J2へ降格したばかりのベガルタ仙台を高校時代の監督から紹介され[4]、テスト生として入団し、プロ契約に至った。1年目からチームの即戦力として起用されるようになり、この年はリーグ戦32試合に出場。翌2005年にはレギュラーとして完全に定着し、2007年以降は5年連続でリーグ戦全試合出場を果たしている。2008年2009年はチームの主将も務めた(2013年は共同主将の一人として再び主将に就任した[注 1]。)。

2011年3月29日に開催された「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ[注 2]では、日本国籍以外の選手としてはただ一人、Jリーグの選抜チームである「Jリーグ TEAM AS ONE」のメンバーに選出され、日本代表と対戦した。

2018年4月28日の対北海道コンサドーレ札幌戦(ユアテックスタジアム仙台)でJリーグ通算500試合出場を達成した。

2019年12月28日、契約満了による退団を発表[6]

2020年1月8日、サガン鳥栖入りを発表[7]

2022年1月5日、ベガルタ仙台への完全移籍での復帰が発表された[8][9]

2023年12月18日、現役を引退することが発表された[10]。引退後はベガルタ仙台クラブコーディネーターに就任[11]

代表歴

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)代表にもたびたび招集されており、2008年東アジア選手権2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選にも出場した。しかし、守備的戦術を採り体力と競り合いの強さを重視する代表の中で持ち味の攻撃的センスを発揮することは難しく、また、2部リーグでプレーしていることでも軽んじられたため[12]、重用されることはなかった。2009年に北朝鮮代表が東アジア選手権予選で敗退した際、出場していた同じ在日朝鮮人の鄭大世が梁を待望するコメントを出している。

北朝鮮代表が44年ぶりのW杯に挑む2010年、いわゆるBチームではあるが代表に2年ぶりに招集され、AFCチャレンジカップ2010優勝に貢献。大会得点王及びMVPを獲得した。同年5月には2010 FIFAワールドカップの北朝鮮代表候補(24名)に選出されたが、予備登録締め切り日までに手続きが遅れた影響で予備登録メンバーにも登録されず、直前合宿に参加したものの最終エントリーメンバーに残れなかった。金正勳監督に対し梁のメンバー入りを強く主張していた在日本朝鮮人蹴球協会の李康弘理事長は、選手枠に空きが無いならと役員枠での帯同を要求し[13]、事実上のサポートメンバーとして引続き同代表に帯同した。

同年12月24日にはAFCアジアカップ2011の北朝鮮代表に選出され、グループリーグ全3試合に出場した(うち2試合で先発)。2011年は2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選の北朝鮮代表に選出。日本戦(アウェイのみ)にも出場したが、同予選では特に目立った活躍はできず、チームも最終予選に進めなかった。

2014年12月16日、AFCアジアカップ2015の北朝鮮代表に選出され、グループリーグ全3試合に先発出場。第2戦のサウジアラビア戦では先制点を挙げた。


  1. ^ FW柳沢敦(2011年より継続)、MF梁、DF角田誠、GK林卓人と、各ポジションに主将を置く。
  2. ^ 同年3月11日に発生した同地震東日本大震災)では、翌日に仙台でのホーム開幕戦を控えていた梁も被災した。地震当日は移動中の車内で一夜を明かし、その後は同僚選手との共同生活を行うなど、練習不足の状態だった[5]
  3. ^ 2002年3月閉校。
  1. ^ 忠岡町観光ガイド”. 忠岡町役場. 2018年5月8日閲覧。
  2. ^ 慎,127頁
  3. ^ a b 慎,134頁
  4. ^ a b c 仙台梁「悲願J1昇格、ホンマ長かった」 日刊スポーツ 2009.11.9
  5. ^ 震災経験、仙台MF梁勇基「参加してよかった」 スポーツニッポン 2011.3.30
  6. ^ 梁勇基選手 契約満了のお知らせ”. ベガルタ仙台 オフィシャルウェブサイト. 2019年12月28日閲覧。
  7. ^ 梁勇基選手 新加入のお知らせ”. サガン鳥栖 オフィシャルウェブサイト (2020年1月8日). 2020年1月8日閲覧。
  8. ^ サガン鳥栖 梁勇基選手 完全移籍加入のお知らせ”. ベガルタ仙台 オフィシャルウェブサイト (2022年1月5日). 2022年1月5日閲覧。
  9. ^ J2仙台に梁勇基が復帰”. 産経ニュース (2022年1月5日). 2022年1月5日閲覧。
  10. ^ 梁勇基選手 現役引退のお知らせ”. ベガルタ仙台 オフィシャルウェブサイト (2023年12月18日). 2023年12月18日閲覧。
  11. ^ 梁勇基クラブコーディネーター 就任のお知らせ”. ベガルタ仙台オフィシャルウェブサイト (2024年1月24日). 2024年1月24日閲覧。
  12. ^ 慎,141-142頁
  13. ^ 『橋を架ける者たち 在日サッカー選手の群像』集英社、2016年、81-83頁。 
  14. ^ 梁、連続出場「213」でストップ…仙台 スポーツ報知 2012.3.11
  15. ^ a b 「日本列島ルーツ探訪」『週刊サッカーダイジェスト』2010年4月20日号
  16. ^ 尚志1歩及ばず準優勝/高校サッカー日刊スポーツ 2014年10月15日閲覧


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