松平康郷 (久松松平家)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 松平康郷 (久松松平家)の意味・解説 

松平康郷 (久松松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/08 08:48 UTC 版)

 
松平康郷
時代 江戸時代中期
生誕 元禄6年(1693年
死没 寛政元年6月13日1789年7月5日
改名 尚慶(初名)→康郷
戒名 道仙
墓所 東京都板橋区小豆沢の総泉寺
官位 従五位下伊勢守安房守豊前守因幡守中務少輔
幕府 江戸幕府 中奥御小姓、御小姓番頭、書院番頭、大番頭、駿府城代、西の丸御側
主君 徳川家継吉宗家重家治
氏族 久松松平家康元
父母 父:松平忠充、母:側室
養父:松平康顕
兄弟 忠章、康顕、康郷岩城秀隆正室、
松平忠一正室、女子ら
康眞、水野勝羨[1]、郷至、最上郷倍[2]
戸田氏永[3]、娘(加藤泰亨妻)、娘(堀田一常妻)、娘(松平忠寄妻)、娘(伊東祐峯妻)ら
テンプレートを表示

松平 康郷(まつだいら やすさと)は、江戸時代中期の旗本官位従五位下伊勢守安房守豊前守因幡守中務少輔

略歴

伊勢国長島藩2代藩主・松平忠充の五男として誕生した。母は側室。初名は尚慶(なおよし)。

元禄15年(1702年)8月21日、父の改易に伴い長島藩は廃藩、代わって兄の康顕が信濃国佐久郡5000石(下県知行所)を、康郷も同地に1000石を賜り、各々寄合に列する。

元禄16年(1703年)3月28日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。正徳2年(1712年)、康顕の養子となり、自身の1000石は収公されたが、正徳3年(1713年)2月24日、康顕の死去に伴い、遺領の5000石を相続し、同4月1日、改めて7代将軍・徳川家継に拝謁する。

享保元年(1716年)12月19日、中奥小姓、享保9年(1724年)閏4月7日、御小姓番頭となる。享保10年(1725年)から翌年にかけて2度、8代将軍・徳川吉宗下総国小金原での鷹狩に随行し、享保11年(1726年)5月28日、書院番頭に移る。享保15年(1730年)1月11日、大番頭となる。

元文4年(1739年)9月6日から寛延4年(1751年)3月25日まで駿府城代を務めた後、江戸城西の丸の御側に移る。この際、吉宗から刀を拝領する。宝暦10年(1760年)、10代将軍・徳川家治が江戸城本丸に移るのに従い、政事を執啓する。宝暦12年(1762年)12月25日、家治次男の徳川貞次郎誕生の時、時服6領と白銀50枚を賜わる。

明和2年(1765年)1月28日、下総飯笹6000石(下総香取郡上総国埴生郡、同長柄郡武蔵国秩父郡)に加増転封となる。

安永元年(1772年)7月2日に致仕し、服5領と養老料として廩米500俵を賜り、また天明6年(1786年)家治50歳の祝宴の際、八丈縞3端を賜る。

寛政元年(1789年)に江戸で死去。享年97。法名は道仙。橋場総泉寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。

脚注

  1. ^ 水野勝澄養子
  2. ^ 最上義郷養子
  3. ^ 戸田氏純養子

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平康郷 (久松松平家)」の関連用語

松平康郷 (久松松平家)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平康郷 (久松松平家)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平康郷 (久松松平家) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS