新川 (東京都中央区)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 10:12 UTC 版)
概要
この地域は、もとは平川(元の神田川)の派川・八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、江戸中島とよばれていた。徳川家康による江戸の普請によって中島を埋め立てた。霊岸橋の南側の亀島川側から永代橋の南側へかけて霊岸島を掘削し、これが後に「新川」の通称で呼ばれるようになった(後述)。新堀を隔てた北側を箱崎島(現・日本橋箱崎町)、南側を霊岸島といった[4]。さらにさらにその南側にも小規模なコの字型の堀が福井藩邸を囲むようにあり、こちらは「越前堀」と呼ばれた。霊岸島の呼称は、かつて八丁堀北東の一州にあった霊巌寺に因む[5]が、明暦の大火で寺は深川へ移り、跡地に町家が成ったとされる。
八丁堀へつながる新堀は、さらに西の道三堀、飯田堀へと続く日本の江戸時代における海運の要であり、越前堀には御船手組屋敷が並び、霊岸島の南端には船見番所が置かれていた。また木場につながるこの地には船大工が多く住み、河岸には酒問屋が多く集まったという[6]。
明治になると東京市の水運が急増し、これに対応するため飯田堀が神田川と再びつなげられ、八丁堀、新堀は日本橋川と名を変えた。福井藩邸跡には鍋島直大、福島敬典(敦賀藩士)、川合執銀、橋本善四郎などの明治政府の名士や実業家に払い下げられている[7]。また、三ノ橋の南側には三菱財閥による日本郵船が、さらに南には渋沢栄一による東京湾汽船が社屋を構えた。霊岸島汽船発着所が置かれて房総、伊豆半島、大島、八丈島などへの海上航路が栄えた。
関東大震災後の屋敷跡は、震災復興小公園として越前堀公園(現在は「越前堀児童公園」)として整備され、越前堀の名を残した。昭和23年、新川は戦災処理の一環として埋め立てられ、地名だけが残ることとなった。隅田川側の旧河口には東京都中央区による案内板が設置されている[8]。
現在はオフィスビルと、マンションなどの住宅地が混在する比較的静かな場所である。現在、日本郵船社屋跡は三菱倉庫を経て賃貸マンションに、東京湾汽船社屋跡は住友倉庫の旧東京本社ツインビルが建っている。また隅田川の堤防上は中央区立の新川公園として整備されている。
京橋地域に属しているものの、古今を通じて、日本橋箱崎町や隅田川対岸の深川地域と密接な関係にある。新川の大半は富岡八幡宮の氏子地域であり、江戸三大祭りにも数えられる深川祭に参加している。南高橋近隣の一部のみ、鐵砲洲稲荷神社の氏子区域に当たり、町会内を分かつ形で、氏子区域が設定されている場所では、両方の例大祭へ参加する。
- ^ a b “町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
- ^ 『江戸寛永図』。
- ^ 『江戸名所図会』
- ^ “-151234 「日本大百科全書(ニッポニカ)『霊岸島』」”. コトバンク. 2018年10月15日閲覧。
- ^ 岡村哲司. 川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩. PHP文庫. ISBN 978-4569837277
- ^ 中央区教育委員会「新川の跡」説明板、平成6年3月設置。
- ^ “区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2019年8月30日閲覧。
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